お互いが本好きなら、結婚すると蔵書の本棚は愉しくなる。
これまでに容易には手に取ることがなかった分野のものや知っているが手に取らずにいた著者の書物が並ぶからだ。
しかし全部読むかと言えば、そうではない。
己のだって読まずに残っている本だって静かにベージが開かれる機会を待っている。
そう、いつ読むか? 結構難しい。
私にとってはそれが小沼丹であり、吉田健一であり、井上靖だ。
特に、「しろばんば」はどんな話か知るだけにむずかしい。
そう言えば、黒澤明が脚本の「あすなろ物語」も見たな。
あれはこれのもう一つの流れにある。
機会は樹木希林が亡くなり、その冥福を忍ぶ放映での「わが母の記」だ。
これは井上靖が、少年期に自分は母に捨てられた子なのかも、という思いを抱き、
その晩年の母を思うストーリーで、この母親役の樹木希林が一筋縄ではない、
あまりにもキャラクター的で「しろばんば」であり、己の母を思い出したからだ。
しかしなぜこの女優を「しろばんば」に起用しようという企画はなかったのか…
漫画ばかりを原作にしめる日本映画の無教養と貧困さは嘆くにあまりある事態だ。
それが機会となったが、思いがけず己の幼少期とシンクロした。
人はいつまでも子供時代など忘れないと信じているが、そうではない。
とりわけ、今のように劣化しない残酷なデジタル的記憶とはちがう、別物だ。
視覚による記憶は錯覚ばかりで、匂いやもっと現しにくい語彙の感覚だ。
子供だからと裸で海水浴させられたあらがえぬ恥辱感は、後に言語化できるにすぎない。
しかし、この作家、井上靖が、育ての母ともなったおぬい婆さん、そしてこの映画での
老婆となった母を、未だに解けぬ曖昧とした心の感情、そこに向かい合う姿勢は素晴らしい。
先日笠岡での展覧会で面白いものを見た。
小野竹喬、土田麦僊、小松均、村上華岳などの日本画家が中心となり、
迫り来る洋画にあらがうべく創立した「国画創作協会の全貌展」だが、
従来の様式テキスタイルではなくリアリズムの老婆があったが、
それがおぬき婆さんを思わせた。