2008年10月29日水曜日

崖の下の宗助



久しぶりに夏目漱石の小説を読んだ。
たぶんこの「門」の前に、谷崎潤一郎の「卍」を読んだ為だ。
正統の、オーゾドックスな面白さにすっかり感心、
もう少しこんな骨のある小説に触れたくなった。

漱石の「門」はその期待を裏切ることは無かった。

「古典はいつ読んでも新しい」

ゆえに、古典であり得るが、実に現代的な事柄がいくつも伺える。

なんでもそうだけど、距離をおかないと、
今のこの場所=現代は見えないのかもしれない。

崖の下の貸家は、地震や偽装建築を疑いながら
棲む我々だし、アンダーなウツのような色調はまるで今の世相だ。

今の日本をの社会を知りたかったら、
漱石を読めということかもしれない。

役所勤務の主人公、宗助は、来期には月給が上がるが、その際に
行われる「淘汰」を内心気にしている。

この「淘汰」という言葉の使い方がいい。
今なら=リストラだが、その和製英語には、人工的な行為しか現されていない。

細部にこそ神は宿る、と言うけれど、
文豪が「淘汰」と使う背景には、いくらか自然界の生物が急激に増殖し、
その後均衡を保つ為に死ぬ者生き残るモノが出る状況をさすニュアンスとして用いたように思う。

そしてこれと照応するごとく、物語の終盤、宗助は唐突に禅寺の門を叩く。
巻末の柄谷行人の解説によれば、この唐突さが当時、欠点となったとあるが、
漱石の心中には、「淘汰」と同様、人意などでは治まりきれなぬ存在を啓示している。

この小説が優れているのは、
作者が生きた近代的合理生活の中に、人の手が及ばない領域をきちんと示したことだ。

株価の暴落する今の乱世には淘汰であってリストラではない。

人間がすべてを操作できると考えるのは奢りなのだと「門」は諭してくれる。