2010年6月18日金曜日

「CLENT」リチャード・シッケル


「CLENTクリント・イーストウッドレトロスペクティブ」リチャード・シッケル著。

クリントと言えば、あの映画だ。

……たしかに
映画好きは、評論家に近い批評を下す傾向がある。
が、それははがばかしい。

「荒野の用心棒」1964年は、黒沢の「用心棒」の盗作だが、
これだけでセルジォ・レオーネ監督を見下してしまうのは惜しい。

まず黒沢明だけど、
この日本の名匠に与えられたのは、映画における斬新なオリジナリティで、
その新たな価値づくりなのだ。
全部、オリジンが黒澤明に与えられた使命なのだと思う。

だから、
「続・姿三四郎」はけっして成功しているとは言えない。
それを監督自身も肝に銘じている。

「羅生門」、
これによってベルイマンの「処女の泉」やフェリーニに「道」を作らせる動機を裏付けたということだ。
つまりそれまでの映画のテーマの価値転換を果たしたわけだ。

黒沢はその後そうした斬新さが求められ、しかもその世界の期待に応えてきた映画監督だ。
だから、遺作「まあただよ」はあれほど面白いのに、
そうしたあまりの大きな期待に添えなかっただけのこと。

作品としてはかなり魅力手的ですぱらしい。
しばらく立って見直したけど、いい映画だ。
そしてやはり遺作の予感に満ちている。

黒沢は映画史でも偉大なる例外。

これと比べると後は凡人になってしまう。
このレオーネにしても、焼き直しのパクリだが、
今ならリメイクという分野で認知され許されるはずだ。

まず、それで言えば、「荒野の用心棒」くらい出来のいいリメイクはない。
「荒野の七人」「ラストマン・スタンディング」なんかよりもずっとわくわくさせる。
そしてマカロニ・ウエスタンというジャンルを産みだしことも忘れてはならない。

クリントもこういうのは因縁のようだ。
どうしてもこの「荒野の用心棒」は大きい。
これによってクリント・イーストウッドというスターが登場したわけだし、
それ以降でいえば
あのドン・シーゲル監督の「ダーティ・ハリー」。

スコープから写し出される遠くのプールで泳ぐ女性。

それが屋上のプールで、さらに上から男が狙撃するという
サンフランシスコの都市空間を特徴的に表現したショットはお見事ではないか。

ホッドッグをかじりながら通りの銀行強盗を打ち倒す
偶像的なヒーロー、ハリー。

それと対峙する異常者アンディ・ロビンソンがいい。
この映画で有名になったマグナムを見て、あらま、おっきい、という。

さすが父上がエドワード・G・ロビンソンだけのことはある印象深い犯罪者役。

スクールバスをジャックし、子供達を脅かして歌を歌わせるシーンはリアルなおかし味があった。
しかもかなりの卑劣卑怯ぶりは悪役史に深く記憶されるはずだ。
一体どっちが主人公なのだと思わせる。

おそらくクリントがシーゲルやレオーネにあっていなかったらあれほどの監督にはなれなかったろう。
「硫黄島からの手紙」はよく出来ていた。

けっして日本人には描けなかった戦争映画だ。

この本を読むと、ただのスターではなく、
黒沢同様に一生懸命に「映画」を探すクリントがよくわかる。

「マディソン郡の橋」にしてもなかなか
わたしはハリソン・フォードで観たい気もするけど。

2010年6月4日金曜日

新訳版「罪と罰」

名作とか古典の新訳が数年前から盛んに行われていたが、
こうした機会は、
すこし読まれなくなった古典に光をあててくれる。

今さら「罪と罰」でも…という気分を
あらためてくれるわけだ。

読んだのは,マンガ。
手塚治虫のだ。

それですっかり読んだ気になってしまう。
ずいぶん後で、ラスコーリニコフは金貸し婆を
殺してからどうなったっけと思って

また読んだのが、大嶋弓子の、やっぱりマンガ。
さすがに少女マンガ家で
ソーニャの存在感は手塚版にない繊細さだとおもった。

さすがに二人とも作家である。

しかしそれでもその原作
ドストエフスキーには負ける。

読んでいてこのおもしろさはやはりすごい。
黒澤明が愛読した作家だけあり、じつに映画的でもある。

たしかに古典はいつ読んでも新しいのだが、
それがあたらしい訳なら読みやすさはある。

これならは亀山郁夫訳の「カラマーゾフの兄弟」を
もう一回読み直してもいいとも思った。

ぜひともディケンズもやってもらいたい。