2018年10月27日土曜日

「しろばんば」井上靖

お互いが本好きなら、結婚すると蔵書の本棚は愉しくなる。
これまでに容易には手に取ることがなかった分野のものや知っているが手に取らずにいた著者の書物が並ぶからだ。

しかし全部読むかと言えば、そうではない。
己のだって読まずに残っている本だって静かにベージが開かれる機会を待っている。

そう、いつ読むか? 結構難しい。

私にとってはそれが小沼丹であり、吉田健一であり、井上靖だ。
特に、「しろばんば」はどんな話か知るだけにむずかしい。

そう言えば、黒澤明が脚本の「あすなろ物語」も見たな。
あれはこれのもう一つの流れにある。

機会は樹木希林が亡くなり、その冥福を忍ぶ放映での「わが母の記」だ。
これは井上靖が、少年期に自分は母に捨てられた子なのかも、という思いを抱き、
その晩年の母を思うストーリーで、この母親役の樹木希林が一筋縄ではない、
あまりにもキャラクター的で「しろばんば」であり、己の母を思い出したからだ。

しかしなぜこの女優を「しろばんば」に起用しようという企画はなかったのか…
漫画ばかりを原作にしめる日本映画の無教養と貧困さは嘆くにあまりある事態だ。

それが機会となったが、思いがけず己の幼少期とシンクロした。
人はいつまでも子供時代など忘れないと信じているが、そうではない。
とりわけ、今のように劣化しない残酷なデジタル的記憶とはちがう、別物だ。

視覚による記憶は錯覚ばかりで、匂いやもっと現しにくい語彙の感覚だ。

子供だからと裸で海水浴させられたあらがえぬ恥辱感は、後に言語化できるにすぎない。

しかし、この作家、井上靖が、育ての母ともなったおぬい婆さん、そしてこの映画での
老婆となった母を、未だに解けぬ曖昧とした心の感情、そこに向かい合う姿勢は素晴らしい。

先日笠岡での展覧会で面白いものを見た。
小野竹喬、土田麦僊、小松均、村上華岳などの日本画家が中心となり、
迫り来る洋画にあらがうべく創立した「国画創作協会の全貌展」だが、
従来の様式テキスタイルではなくリアリズムの老婆があったが、
それがおぬき婆さんを思わせた。



2018年5月15日火曜日

「騎士団長殺し」



ほとんど一気に読んだ。

この小説は月日をかけて読むことは出来ない。集中してページをめくる。
多分読み手以上に書き手が

それを、スピードを要求するような気がする。

試しに速度を遅くして読んだが、
読後に立ち現れる形象が判然しないのはどうしたことだろう。

およそ千ページの小説がそう言う条件を要求するのは面白い。



主な空間が、小田原の空いた雨田具彦画伯の山荘で過ごす半年余。
主人公は…、画家なのだが、村上らしく肖像画家だ。

作者が敬愛するフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」の型を借り、
(私が個人的に好きな、)上田秋成を借りる。

「春雨物語」の「二世の縁」が引用があり、イメージ、メタファーとなっている。

驚くべきは、この画家が「二世の縁」の入定の定助のごとく、
何の悟りも得ることなしに凡庸とも言える家庭を持つ。

村上春樹にあまり出てこなかった
娘との幸せそうな在りようが、なんとも素晴らしい。


一緒に暮らせないと妻に言われ、車で北海道、東北を巡る主人公の過去と、
IT企業で成功し、ジャガーを乗り回す白髪の色免の過去。

一方は実に予期せぬ賜物の現実の娘であろう秋川まりえを、
ギャッビー以上の奇抜な手段で手元に得ようとするし、
画家は、意図せず妻柚との性交の夢で娘を、ある意味では…、
夫婦の危機を乗り越え、得るのだ。


もう一度繰り返しになるが、
「騎士団長殺し」は読むスピードがあり、
ゆっくりは読めない。

読後の形作られたかたち、綺麗なシンメトリーなのだ。

たぶん、山本周五郎とか…
小津安二郎、キューブリックの映画とか
そういう…あたりの位置とか境地にこの作者が達したのだろう。