2019年8月28日水曜日

萩尾望都「銀の三角」

カラーページでどうしてあんな色を使うのだ?

萩尾望都の使う色彩には混乱させられる。

昔は少女マンガ家の色彩感覚だろうなと承知させていたが、
他の女性作家とも色使いの次元が違う気がしてならない。
無視してきたが次第次第に
無意識に別な領域をくすぐるから、これはあきらかに意図的だ。

この独自な色使いとともに、漫画自体の画面構成にも大きく影響を与えている。
話ストーリー以上に構図と構成が関係しているのは、おそらく
彼女の表現したい時間的感覚。

男性が描くスピード感の効果斜線の如き簡便、かつ単細胞的な直接表現などせずに
空気感を伝える手法は優雅で美しく見事だ。

それが特にSF分野の題材において顕著に現れる。

平面に描く。
この制約には限りがありそうだが、萩尾望都は意欲的で野心家だ。
だからなのか
アニメーション化しにくいのだろう。いや、むしろ
出来ない色使いと大胆で繊細な画面構成だ。


2019年8月19日月曜日

アンヌ・ヴィアゼムスキー「彼女のひたむきな12ヶ月」

彼女の死の直前の回想記になっている。
この本の映画化もアンヌ・ヴィアゼムスキーが70歳で亡くなったのも最近知る。
17歳のときブレッソンに発見され、「バルタザールどこへ行く」に出演、
この撮影を見に来ていたジャン・リック・ゴダールに追いかけられて結婚。

その回想を最晩年にアンヌが書く。

読んでみたなったのは、
19歳未成年が年上男と結婚に至ると言うきわめて下世話で個人的な謎だったが、
すぐにアンヌ・ヴィアゼムスキーにはその準備ができているがわかった。

あまりにも条件が揃っている。

この時一筋ならではない名匠ロベール・ブレッソンの映画で悲惨で
けなげな小娘を演じるが、実家はブルジョワ。
ガリマール出版の一門であり、フランスを代表するノーベル賞作家
フランソワ・モーリアックの、直系の孫娘だ。
この背景だけで既に平凡、一般的なものがありえようもない。

常識の枠がないのは、考えてみれば当たり前だ。

「私が好きな人は私と同い年」というアンヌに、家族が騒ぐ。
いいたい放題が如何にもフランス的だ。
この恋愛劇は映画以上で、永遠に大人になれぬゴダールが滑稽だが、
アンナ・カリーナと別れたばかりのこの男は必死に食い下がるのだ。

凡人のように映画にでてくれとは言わない。
結婚しょうと言うのだ。

それが映画の為か欲望の為か…、おそらくその両方。その結婚が長く続くとも知りつつも
直感的にかつ本能的に知り得ているところがゴダールをゴダールにしている。


2019年8月2日金曜日

「濹東綺譚」と「寺島町奇譚」

先の佐藤春夫。荷風を慕い慶応へと、そして小説家となりし。
ならば 次は永井荷風。

「幻魔大戦」
動画による映画化をキャラクター制作時から愉しみだったが、
封切りを遠慮した。見たのはテレビ放映。

監督のりんたろうは意欲作。キース・エマーソン音楽だけにあらず。
キャラ設定に大友起用したが、
どうして主役声優が、あれなのか…、「巨人の星」。
どちらもシスコン共通性が結びつけたか、
これがつい解せず、声が許せなかった。

キャラ声。
信用できるかどうかだけなのだ。これは駄目。
この一点で見送った。

さて。ここに敵、幻魔カフー。これが
かの荷風先生だとわかったのは、最近。何故か 突然、そうか、
モデルはこれか!   大友おそるべし。

その荷風の「濹東綺譚」。
玉ノ井、白鬚橋、東向島は、かっての街娼のひしめく町。
関東大震災で焼けだされた吉原が移転、私娼の人々が商うここは、
今やスカイツリーが…

懐かしい町だ。
石巻出のくせに、東京がほんとうに長い。
本所横網の私立ぼっちゃん中高に江戸川から早くも六年通った。
まだ路面電車が走り、貸本屋上がりの古本屋などたくさん、
両国の相撲取りが歩く江戸の名残りさえあった奇怪な町。

知りうるきっかけはこの辺りが地元だった同級生たち。
そう言えば、「ハリスの旋風」、岩波先生の、
モデルとなりし本人の息子もいた。

学校帰りの楽天地で怪しげな連中に券を頂戴し映画を見た。

荷風も玉ノ井を描く滝田ゆうも、何が懐かしいかって、
あの江戸っ子方言だろう。
落語も時代劇もいきなり立ち上がる。

あの映画、「オールディズ三丁目の夕日」じゃなく
やってもらいたかったのは寺島町の夕日だ。
新藤兼人が撮った映画もこの際見よう。

谷崎も荷風も老いてますますの女好き文士。
若い細君を伴侶にこれをミューズとした谷崎。一方の荷風、
一人暮らし、細君なんぞいらないが己の都合で会いに行くのがいい。

尾道にきてそれを感じたのは新開。
ちと新宿ゴールデン街にも似ているが、北前船からの花柳街。
その残滓は今なお残っている。



2019年7月16日火曜日

佐藤春夫「わんぱく時代」

偕成社の本。
その奥付には、昭和42年の刊行とあり、値段は280円。

多分、小学五年生の時にいただいた。
どなたからなのか…覚えていないが、親戚筋からだろう。

その当時はまだ読書少年ではなかったのか…六年生あたりで校舎の教室が
近隣の人口増で追いつかず、一時的に図書館が教室になった。
あれは、よかった。周りに本棚で無視できず、
ついに卒業までに五十冊読もうとの決心をした。

環境の刺激を受ける少年時代のことだ。

それ以来本の虫になったのに、家にあった佐藤春夫には手をつけなかった。
谷崎潤一郎は好きなのに、なぜだろう…。
佐藤と谷崎の奥さんのやり取りを巡る事件を知るのはもっと後だ。

「わんぱく時代」は大林の映画でも先に観て知っている。

若いアイドル娘とみればやたらと裸にするこの監督にあって、唯一の手柄はこの映画だ。
それが表現する時代性と内容に不可欠であり、
鷲尾いさ子を裸にしたのは実にエラかった。

淀川長治がルイ・マルの「プリティ・ベビー」のブルック・シールズに等しい
と記したが、それ以上だ。
「死ぬまで見たい100本」の映画に加えるべきか…

「わんぱく時代」が佐藤春夫の少年期、和歌山新宮の自身の物語なら、
この「野ゆき山ゆき海べゆき」は佐藤の枠を借りた大林の少年期。

鷲尾いさ子をお昌ちゃんに、このマドンナを中心にした展開に変えている。
原作とは大きくちがうのを、半世紀以上して読んで知る。

そして映画では描ききれなかったが、
戦争ごっこに興じるライバル、崎山栄がその後大逆事件で連座する。
佐藤は少年期と故郷の当時はわからなかった思いや人物の出来事を書いている。

これは、主人公の年齢は上がるが、
青年期の妄想や欲情をけんかで乗り切るうちに、
本物の喧嘩=戦争に呑み込まれて行く
鈴木清順の傑作「けんかえれじい」に近い。

この二本の映画は
この国が明治維新から国際的戦争に乗り込む大人になっていない
無知な勇ましい愚かな当時の空気を伝えている。

その意図があればこそ大林は演出表現を変えたのかもしれない。
日本人のわんぱく時代が度を越えてしまい
実際の戦争になるのを予感させるが、まるで小学生の学芸会のようだ。
しかも教師や医者の父、女衒などの大人たちは見事に紛争や化粧で戯画化されている。

棒読みセリフに一瞬、呆れるが、
これが日本がそのわんぱく時代にあることに重ねる効用は大きい。
その核に役者慣れしていない鷲尾いさ子のお昌ちゃんがいるように配している。

恋人の尾美としのりと山河を筏で流れ下る場面は映像的な快感、素晴らしい。

これくらいが和歌山での撮影で後のほとんどが尾道、鞆の浦での撮影は
細かいショットを積み重ね物語の舞台を設計しているが、
何本も故郷で撮っただけのことはある。


十四歳には見えぬ娘の着物。
つんつるてんのアンバランスこそが魅力なのだ。



2019年7月10日水曜日

漱石「それから」

松田優作主演、森田芳光監督のを観ていたせいで未読だった。
あらためて読んで、新鮮。
そう、映画とは…、当然のこと違う。

森田監督は映像で伝えようとしたが、
漱石の文章にはいつも執筆された時代の匂いがある。
それが面白い。

今でこそ「恋愛」は、ある人にはあるし、ない人にも理解を得るが、
これも輸入品の一部だ。

    近いものはあったにせよ。
    日本にはなかった。

友人の平岡や代助の父や兄がフツーなのだ。
それでは恋愛は描けぬ。
そこでそのなきものを成立させる為に、長井代助という
いないキャラを拵え上げている。

その為の親に寄生し屁理屈をこねる高等遊民ばかりが際立つようだが、
今更読むと、冷ややかな傍観的観察者から明治期社会を眺める。

富国強兵と言いながら、経済も政治もアベノミクスみたいに実態は乏しく貧しい。
会社員は丁稚と変わらず、金を稼ぐ手段ではない。
この「経済」すらも輸入品なのだ。

政治家も資本家の贈賄、日糖事件に代助の兄が絡む。
この兄が接待やら根回しで多忙なのは今と変わらない。

しかもその事件、
地方銀行でしくじり上京して経済の新聞記者に就職する友人
平岡が借りた金もあり忖度し、記事にせずにいる。

ジャーナリズムの噂と忖度も昨今に通じる。
そう言えば、新聞も輸入品か…、瓦版は
町レベルのメディか…

その上京した平岡の越す家だ。
あまりにも建材やら間取りの安っぽさへの記述もあり、
不動産屋の悪知恵算段も描かれている。



2019年5月9日木曜日

「道草」「二百十日」夏目漱石

久しぶりに漱石を読んでいる。
未読を拾い読みしているのだが、「道草」は愉快な小説だった。

一応、本人の生活をモデルにするが、
冷ややかに己の人生や伴侶を描く力量が見事だ。
多少也とも都合悪い出来ごとをごまかしてしまうのを
逆に徹底して皮肉に描いたのが、その魅力になっている。

たぶん、実生活でもこんな滑稽なやり取りをオープンしていたのだろう。
でなかったら、到底あんな小説にはならぬ気がする。

「二百十日」は三遊亭円生の落語のようだ。
会話形式が八割以上の、一応旅行記。

圭と碌の二人の若者が、阿蘇山麓の宿にいて火口をのぞきに行こうとしている。
その宿では実にどうでもいい話をしている。

道すがらの鍛冶屋の様子やら、ディケンズの「二都物語」(ジッチンズ「両都物語」)、
華族や金持ちへの文句など、ラジオもテレビもない時代の話の感覚化にあふれている。

去年だったか、「草枕」が何度挑戦しても読み終えず、日下武朗読版に手を出した。
確かに俳優の朗読は見事だが、見事すぎる点が欠点でもあろう。
円生もらえば良かったのに。



2019年3月1日金曜日

「志賀直哉全集」

久しぶりに「暗夜行路」を再読した。

年末、市立大学イベントで久しぶりに手に取る気になった。
そのテーマが尾道を小説で読む。
去年読んだ上田秋成「雨月物語」を古語の現代翻訳版もあわせ読んだが、
その著者、円城塔も参加していた。もちろんそれが目当てではない。
この頃は現代小説を読んでいないし、なにかきっかけでもと考えていた。

興味深く聞くが、林芙美子など、尾道を素材にした作家が多いのはわかる。
だが、肝心の志賀直哉がない。
どうやら今生きている作家と文豪志賀とは縁が切れているらしい…

彼は大正時代にここに住み、「清兵衛と瓢箪」の着想となる話を聞く。
その頃の尾道の店にはひょうたんが流行し、たくさんあったらしい。
(…今でも私のいく駅近くの店内には立派な絵柄付きの瓢箪が飾ってある。
 まさか志賀当時のものとは無関係だろうが… )

しかし。いつでも流行と言うのは奇妙なものだ。

白樺派のおぼっちゃん、志賀は今記念館となっている家を借りるが、ひどい寒がり。
尾道の寒さが苦手らしくで七輪やストーブを使うが、料金が半端じゃなく料理屋並。
かなりの引越魔で、村上春樹も負けるほどで各地に住んでは小説を描いている。

この志賀先生、同郷の石巻生まれ。
故にどの文豪より一目置くのだが、読んだ人は判るがうまいけど親しみのない文章。
どっかと言えばクール。
そう言えば、小津が敬愛している。

小津映画の原作は里見弴とかで志賀のはないが、
いつか「暗夜行路」を映画化したかったらしいと、どこかで読んだ。

あの名匠伊丹万作の「赤西蠣太」くらい。
原作と違うのに戸惑った作者は最初は気に入らず、後に見直してから気に入ったそうだ。確かにこの人のは、そのまま映画の原作になりそうな小説がない。

さて。
これが気になり、調べようと全集にある日記を読んでみた。

志賀の全集には、日記、手帳には博物館でのスケッチがあるが、なかなかうまい。
さすが美術コレクター、座右宝のひとである。

全集にも、ちと驚く。全集だからずらっとあるが、なんと小説は実に少ない。
長編は「暗夜行路」のみ。
草稿もはいっているが、ほとんどどこが違うのか…、
タイトルが「大津順吉」とあるが内容は時任健作の習作。

この文豪が散々逡巡した軌跡が伺える。



2019年2月16日土曜日

リチャード・アダムスの本。

「ウォーターシップダウンのウサギたち」を読み返す。
それこそ大昔に買ったが久しぶりだった。

そういえば、この作者次は何を描いたのか、気になり調べたら
随分違う話を書いている。

「ブランコの少女」。

翻訳が会わない気がしたが…