この映画で一番好きなシーンは、
車に乗っているのに、ストリート・ギャングに
タイヤとかの部品を盗られるシーンだ。
そのギャングが子供とか小人、まるでボッシュの
地獄図未来版。
この場面一つで、
一体この映画の世界がどんな社会かがよくわかる。
リドリー・スコットが編集の権利が無く、
彼の意に添わず、
遅れに遅れ、制作費のふくれあがった名作は勝手に公開された。
確かに何年かの後の「完全版」とか「ディレクターズ・カット版」
リバイバルもあり、リドリー版も公開された。
そちらは見てはいない。必要がない。
なぜなら、その封切りの荒っぽさが好きだからだ。
確かに監督の意に添わなかったかもしれないが、
観客のイメージはおおいに喚起した。
わからなさも含めていいのだ。
映画に関して、後の、時間をおいた編集は、
プロデューサーに途中で作品を取り上げられたりと
なんとしても自分の手でもう一度と思うのはわかるが、
これで良かった作品は知らない。
「ニューシネマ・パラダイス」も、
蛇足以上で、なにかしら後味が良くなかった。
公開された段階で、客のものなのだ。
あの「地獄の黙示録」もカンヌ公開のタイトルの入ってない
のが一番いい。
たぶん、タイトルもキャストも何も入っていない映画は
あれがはじめてだ。
未だにその一本。
それが映画の体験なんだと思う。
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