2019年5月9日木曜日

「道草」「二百十日」夏目漱石

久しぶりに漱石を読んでいる。
未読を拾い読みしているのだが、「道草」は愉快な小説だった。

一応、本人の生活をモデルにするが、
冷ややかに己の人生や伴侶を描く力量が見事だ。
多少也とも都合悪い出来ごとをごまかしてしまうのを
逆に徹底して皮肉に描いたのが、その魅力になっている。

たぶん、実生活でもこんな滑稽なやり取りをオープンしていたのだろう。
でなかったら、到底あんな小説にはならぬ気がする。

「二百十日」は三遊亭円生の落語のようだ。
会話形式が八割以上の、一応旅行記。

圭と碌の二人の若者が、阿蘇山麓の宿にいて火口をのぞきに行こうとしている。
その宿では実にどうでもいい話をしている。

道すがらの鍛冶屋の様子やら、ディケンズの「二都物語」(ジッチンズ「両都物語」)、
華族や金持ちへの文句など、ラジオもテレビもない時代の話の感覚化にあふれている。

去年だったか、「草枕」が何度挑戦しても読み終えず、日下武朗読版に手を出した。
確かに俳優の朗読は見事だが、見事すぎる点が欠点でもあろう。
円生もらえば良かったのに。



2019年3月1日金曜日

「志賀直哉全集」

久しぶりに「暗夜行路」を再読した。

年末、市立大学イベントで久しぶりに手に取る気になった。
そのテーマが尾道を小説で読む。
去年読んだ上田秋成「雨月物語」を古語の現代翻訳版もあわせ読んだが、
その著者、円城塔も参加していた。もちろんそれが目当てではない。
この頃は現代小説を読んでいないし、なにかきっかけでもと考えていた。

興味深く聞くが、林芙美子など、尾道を素材にした作家が多いのはわかる。
だが、肝心の志賀直哉がない。
どうやら今生きている作家と文豪志賀とは縁が切れているらしい…

彼は大正時代にここに住み、「清兵衛と瓢箪」の着想となる話を聞く。
その頃の尾道の店にはひょうたんが流行し、たくさんあったらしい。
(…今でも私のいく駅近くの店内には立派な絵柄付きの瓢箪が飾ってある。
 まさか志賀当時のものとは無関係だろうが… )

しかし。いつでも流行と言うのは奇妙なものだ。

白樺派のおぼっちゃん、志賀は今記念館となっている家を借りるが、ひどい寒がり。
尾道の寒さが苦手らしくで七輪やストーブを使うが、料金が半端じゃなく料理屋並。
かなりの引越魔で、村上春樹も負けるほどで各地に住んでは小説を描いている。

この志賀先生、同郷の石巻生まれ。
故にどの文豪より一目置くのだが、読んだ人は判るがうまいけど親しみのない文章。
どっかと言えばクール。
そう言えば、小津が敬愛している。

小津映画の原作は里見弴とかで志賀のはないが、
いつか「暗夜行路」を映画化したかったらしいと、どこかで読んだ。

あの名匠伊丹万作の「赤西蠣太」くらい。
原作と違うのに戸惑った作者は最初は気に入らず、後に見直してから気に入ったそうだ。確かにこの人のは、そのまま映画の原作になりそうな小説がない。

さて。
これが気になり、調べようと全集にある日記を読んでみた。

志賀の全集には、日記、手帳には博物館でのスケッチがあるが、なかなかうまい。
さすが美術コレクター、座右宝のひとである。

全集にも、ちと驚く。全集だからずらっとあるが、なんと小説は実に少ない。
長編は「暗夜行路」のみ。
草稿もはいっているが、ほとんどどこが違うのか…、
タイトルが「大津順吉」とあるが内容は時任健作の習作。

この文豪が散々逡巡した軌跡が伺える。



2019年2月16日土曜日

リチャード・アダムスの本。

「ウォーターシップダウンのウサギたち」を読み返す。
それこそ大昔に買ったが久しぶりだった。

そういえば、この作者次は何を描いたのか、気になり調べたら
随分違う話を書いている。

「ブランコの少女」。

翻訳が会わない気がしたが…

2018年10月27日土曜日

「しろばんば」井上靖

お互いが本好きなら、結婚すると蔵書の本棚は愉しくなる。
これまでに容易には手に取ることがなかった分野のものや知っているが手に取らずにいた著者の書物が並ぶからだ。

しかし全部読むかと言えば、そうではない。
己のだって読まずに残っている本だって静かにベージが開かれる機会を待っている。

そう、いつ読むか? 結構難しい。

私にとってはそれが小沼丹であり、吉田健一であり、井上靖だ。
特に、「しろばんば」はどんな話か知るだけにむずかしい。

そう言えば、黒澤明が脚本の「あすなろ物語」も見たな。
あれはこれのもう一つの流れにある。

機会は樹木希林が亡くなり、その冥福を忍ぶ放映での「わが母の記」だ。
これは井上靖が、少年期に自分は母に捨てられた子なのかも、という思いを抱き、
その晩年の母を思うストーリーで、この母親役の樹木希林が一筋縄ではない、
あまりにもキャラクター的で「しろばんば」であり、己の母を思い出したからだ。

しかしなぜこの女優を「しろばんば」に起用しようという企画はなかったのか…
漫画ばかりを原作にしめる日本映画の無教養と貧困さは嘆くにあまりある事態だ。

それが機会となったが、思いがけず己の幼少期とシンクロした。
人はいつまでも子供時代など忘れないと信じているが、そうではない。
とりわけ、今のように劣化しない残酷なデジタル的記憶とはちがう、別物だ。

視覚による記憶は錯覚ばかりで、匂いやもっと現しにくい語彙の感覚だ。

子供だからと裸で海水浴させられたあらがえぬ恥辱感は、後に言語化できるにすぎない。

しかし、この作家、井上靖が、育ての母ともなったおぬい婆さん、そしてこの映画での
老婆となった母を、未だに解けぬ曖昧とした心の感情、そこに向かい合う姿勢は素晴らしい。

先日笠岡での展覧会で面白いものを見た。
小野竹喬、土田麦僊、小松均、村上華岳などの日本画家が中心となり、
迫り来る洋画にあらがうべく創立した「国画創作協会の全貌展」だが、
従来の様式テキスタイルではなくリアリズムの老婆があったが、
それがおぬき婆さんを思わせた。



2018年5月15日火曜日

「騎士団長殺し」



ほとんど一気に読んだ。

この小説は月日をかけて読むことは出来ない。集中してページをめくる。
多分読み手以上に書き手が

それを、スピードを要求するような気がする。

試しに速度を遅くして読んだが、
読後に立ち現れる形象が判然しないのはどうしたことだろう。

およそ千ページの小説がそう言う条件を要求するのは面白い。



主な空間が、小田原の空いた雨田具彦画伯の山荘で過ごす半年余。
主人公は…、画家なのだが、村上らしく肖像画家だ。

作者が敬愛するフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」の型を借り、
(私が個人的に好きな、)上田秋成を借りる。

「春雨物語」の「二世の縁」が引用があり、イメージ、メタファーとなっている。

驚くべきは、この画家が「二世の縁」の入定の定助のごとく、
何の悟りも得ることなしに凡庸とも言える家庭を持つ。

村上春樹にあまり出てこなかった
娘との幸せそうな在りようが、なんとも素晴らしい。


一緒に暮らせないと妻に言われ、車で北海道、東北を巡る主人公の過去と、
IT企業で成功し、ジャガーを乗り回す白髪の色免の過去。

一方は実に予期せぬ賜物の現実の娘であろう秋川まりえを、
ギャッビー以上の奇抜な手段で手元に得ようとするし、
画家は、意図せず妻柚との性交の夢で娘を、ある意味では…、
夫婦の危機を乗り越え、得るのだ。


もう一度繰り返しになるが、
「騎士団長殺し」は読むスピードがあり、
ゆっくりは読めない。

読後の形作られたかたち、綺麗なシンメトリーなのだ。

たぶん、山本周五郎とか…
小津安二郎、キューブリックの映画とか
そういう…あたりの位置とか境地にこの作者が達したのだろう。

2013年8月10日土曜日

知ってはいるが,読んだことがない。


そういうのか気になり,大佛次郎の「鞍馬天狗」を読み、
安部公房の年代物の文庫本が出てきたのをきっかけに読む。

どちらも映画で見ているが、原作は未読だった。

カバーの絵は作者の奥さん。
感覚的に日本人、いや日本の小説的じゃないところだ。

そういうのは演劇との関わりのせいだろうか。




2013年7月25日木曜日

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」


相変わらず面白い。

この作品の魅力のひとつは、
つくるが四人の親友たちから受ける突然の絶縁だ。

しかもそれが後になって当人の知らぬ事実ではないこと、
更にそうせざるを得なかった事情にある。

そうなった経緯も、その後に起こる悲劇も、小説にありがちな突飛さがなく、
あるかもしれないと感じられる点だ。

また作者は、どの作品もだけど作中の人物のつけ方が上手いのも特徴だろう。

今回は名付けの由来が語られているが、
「多崎つくる」の
幾何的にして鋭角なプリズムの形象をイメージさせる名前と、
光を受けて視認できる色彩と色温度が重なる人物の対比が面白い。

        色即是空。

  音楽的なところが素晴らしい。