2009年6月28日日曜日

「金鉱町のルーシー」カレン・クシュマン



カリフォルニアに行けば、金がごろごろ採れる
その黄金時代幕開けを背景にした児童文学。

やはりどうしても思い出してしまうのが「大草原の小さな家」。

後家となった無鉄砲な母親にいやいや同行する少女が
ここを故郷と思うまでを描いてます。

それにしても、このゴールドラッシュは、
金だったり、ハリウッド映画だったり、
パソコン開発だったり、

全部「虚」的だというのが興味深い。
太平洋側はそういうイメージの土地なんでしょうね。

2009年6月14日日曜日

森絵都の「ラン」


数年前よりデビュー作から読んでいる作家,森絵都。
日本の児童文学にあって
リアリティの重さを取り込んだ
なかなかすごい存在だと感心した。

何しろ裕福な消費大国の、
児童文学なのである。

大抵なら何を書いても嘘くさくなる
はず、まずここがこの作家のすごさ。

いつのまにか直木賞受賞し、その第一作。
皮肉なことに、大衆小説での分野では
森の良さが今ひとつ鈍い、そう思うのは私だけか。

その辺りがすぐに読まずにいたことと関係はあるが、
それは個人的なことだ。

460ページほどだが、丸二日。
ディケンズなら、50ページ分くらいか。
誤解されると困るが、内容がないわけではない。

確か、作者もこれを描く為に40キロ走ったとか、
走らなかったとか
いう執筆に関する記事を目にしたが、
(…ほとんど、正確ではないのであしからず)
そういう体験的なやり方の方に興味が行った。

やりたい体験より、やりたくない体験の方が
小説としてはいい気がするが…。

2009年6月7日日曜日

「荒涼館」チャールズ・ディケンズ


「荒涼館」を読み終わる。
一月半くらいでこの長編小説を読んだ。

世界文学全集の装丁の、
机でないと読めない重さ。
いや、
それよりも、三段式の文字組に慣れるまでが大変だった。
こんなに読みにくいのもない。

だけではない。
たぶん、ディケンズの物語世界の大きさのせいだ。
それは私などがストーリー中心として読む
習慣性の違いが大きい。

こういう長編の読書体験はとても格別な感じがある。
その格別な長さこそが爽快さを産む。大抵の現代小説のようにストーリーが中心ではない。

むしろ細部の、空間や雰囲気、または社会的事情などのいわば横道の方、
そうした枠の大きさがワイドかつ鮮明なハイビジョン的。

ここがまずもって得難いところだ。
それがストーリーの流れを鈍くしているが、

そこには今の時代にはない時間感覚とテンポの魅力がある。
宮崎漫画の描写にも通じる読みにくさがかえっていいのだ。


そしてそういう濃度でしか、体験できないのが、
ドストエフスキーとかトーマス。マン、
ディケンズとかの文豪の長編だろう。






2009年6月4日木曜日

ペイトン「バラの構図」



引っ越した田舎の家、
そこの暖炉の煙突から出てきた絵。

これをきっかけに
かってその家に住んでいた少年と
現在の将来に悩む青年。

出会うこと無い二人が交錯する物語。
小説の構成は確かによくあるんですけど、
要はその表現がうまいのです。

そして挫折を知らず無垢でいることが
人を傷つけ、
やがて自分の身分をもっとも嫌な状況で知らされ
その無垢な気持ちを捨て去ろうとする。

よく描けてます。

2009年6月3日水曜日

エンデ「遺産相続ゲーム」



これは芝居の戯曲として
ミヒャエル・エンデが描いてます。

巻末の劇を制作する上での
演出上の注意書きを読むと、
一本くらい映画を作っても
よかったんじゃないかなと思います。

たぶんもう一つ違った世代だったら
そうした可能性があったんじゃないかとも思いますけど。

2009年6月1日月曜日

ハウフの童話「魔法物語」





「ハウフ童話集」(訳=高橋健二)と
この「「魔法物語」(訳=種村季弘)を読んでみた。
短編の集まりで、うちの二つが同じ話。


もちろん装丁も違うし、
片方の、児童向けは
ヤーヌス・グラビアンスキーの絵が入っている。

いつも、外国の、翻訳本というのは、
何か違うモノを読まされる気がしてならぬと疑うが、
やはり本当に雰囲気が違うし、読後感が違う。


また訳者によって大変好きな作家なのに
読めないという辛い体験もある。

このもどかしさは実に不思議だ。
全く違う環境で観る映画にも似ている。

作者のヴィルヘルム・ハウフは
1802年に生まれ、
25才にならないうちに死んだそうだ。

作者ハウフも、昔からの物語を自分なりの手法で
蘇られせているんだけど、
落語と同じではないだろうか、

三遊亭円生版もあれば、
古今亭志ん生版もあるのに似ている。

そういうところが面白いと感じている。