2011年3月26日土曜日

「映画は語る」


淀川長治。
この方は、映画の妖精だと思う。

いなくなった後で…

それがいつからいなくなったのかという期間もあるけど…
いなくなってから、よくわかるということがある。

ひさしぶりに淀川長治の「声」が聞きたくなった。

誕生から百年以上たった映画は、今現在のDVDを中心として見る映画とも
70年代や80年代の場所に縛られてみる映画とも違っている。

もっと神秘的で、より娯楽性が高かった。

映画の黎明期から黄金期を体感してきた淀川長治は、
今の映画を、生きていたらどう思うだろう。


ちょっとそんなことを思いながら読んだ。

2011年3月1日火曜日

黒澤明が愛した山本周五郎

近頃、本が読めなくなった。
どうも読みたくなる意欲が乏しい。
そういう困った時には、山本周五郎。

他の人に聞くかどうかわからないが私には薬。

「柳橋物語」を読んだが、やはり効いた。

この面白さ、
読者ともに庄吉も幸太も、主人公のおせんが本当にどちらが好きなのかわからない点にある。

ただ先に聞かれた相手に、答えたがゆえに約束として存在し、
それが実在として固まってくる心情が見事なのだ。

先回りされた幸太がそれでも思いを捨てきれず、大火事の際に助けようと身を投げ出す。
杉田屋という大名の屋敷にも出入りする大工と、母との関係もまわりの主観的な見解によって知らされ、
なにかしら養子入りした幸太への影響の与え方もうまい。

考えてみれば、母も他界しているし、辛い思いをした事も過去に過ぎないが、
祖父が語る杉田屋の養子話があるのとないのとでは深みが異なろう。

その語りすぎない描き方が上手なのだ。
作者のいずれにも肩を持たない、公平な表現がなければ物語と失敗するかもしれぬ内容だ。

もう一つの
育ちの違う家具職人の弟子と親方の娘まきとの話、「むかしも今も」もうまい。

さて
黒澤明は、この山本周五郎の小説を企画含めて、5本も取り組んでいる。

芥川龍之介の「羅生門」、ドストエフスキー「白痴」、ゴーリキー「どん底」、
シェークスピアでも、「蜘蛛巣城」、「乱」の2本。

原作の映画化「は、「日々平安」の、「椿三十郎」、
「赤ひげ」、「どですかでん」。

残された企画が「雨あがる」と「海は見ていた」となる。

山本も黒澤も、その作品性はエンターティメントにありながら、
純文学以上に磨き上げられた芸術的な技にある。

そういう意味ではこの二人の巨匠は本当に稀な存在だと思う。


【関連記事→「大系黒澤明」http://s-tusin.blog.so-net.ne.jp/2010-07-10】