2019年7月16日火曜日

佐藤春夫「わんぱく時代」

偕成社の本。
その奥付には、昭和42年の刊行とあり、値段は280円。

多分、小学五年生の時にいただいた。
どなたからなのか…覚えていないが、親戚筋からだろう。

その当時はまだ読書少年ではなかったのか…六年生あたりで校舎の教室が
近隣の人口増で追いつかず、一時的に図書館が教室になった。
あれは、よかった。周りに本棚で無視できず、
ついに卒業までに五十冊読もうとの決心をした。

環境の刺激を受ける少年時代のことだ。

それ以来本の虫になったのに、家にあった佐藤春夫には手をつけなかった。
谷崎潤一郎は好きなのに、なぜだろう…。
佐藤と谷崎の奥さんのやり取りを巡る事件を知るのはもっと後だ。

「わんぱく時代」は大林の映画でも先に観て知っている。

若いアイドル娘とみればやたらと裸にするこの監督にあって、唯一の手柄はこの映画だ。
それが表現する時代性と内容に不可欠であり、
鷲尾いさ子を裸にしたのは実にエラかった。

淀川長治がルイ・マルの「プリティ・ベビー」のブルック・シールズに等しい
と記したが、それ以上だ。
「死ぬまで見たい100本」の映画に加えるべきか…

「わんぱく時代」が佐藤春夫の少年期、和歌山新宮の自身の物語なら、
この「野ゆき山ゆき海べゆき」は佐藤の枠を借りた大林の少年期。

鷲尾いさ子をお昌ちゃんに、このマドンナを中心にした展開に変えている。
原作とは大きくちがうのを、半世紀以上して読んで知る。

そして映画では描ききれなかったが、
戦争ごっこに興じるライバル、崎山栄がその後大逆事件で連座する。
佐藤は少年期と故郷の当時はわからなかった思いや人物の出来事を書いている。

これは、主人公の年齢は上がるが、
青年期の妄想や欲情をけんかで乗り切るうちに、
本物の喧嘩=戦争に呑み込まれて行く
鈴木清順の傑作「けんかえれじい」に近い。

この二本の映画は
この国が明治維新から国際的戦争に乗り込む大人になっていない
無知な勇ましい愚かな当時の空気を伝えている。

その意図があればこそ大林は演出表現を変えたのかもしれない。
日本人のわんぱく時代が度を越えてしまい
実際の戦争になるのを予感させるが、まるで小学生の学芸会のようだ。
しかも教師や医者の父、女衒などの大人たちは見事に紛争や化粧で戯画化されている。

棒読みセリフに一瞬、呆れるが、
これが日本がそのわんぱく時代にあることに重ねる効用は大きい。
その核に役者慣れしていない鷲尾いさ子のお昌ちゃんがいるように配している。

恋人の尾美としのりと山河を筏で流れ下る場面は映像的な快感、素晴らしい。

これくらいが和歌山での撮影で後のほとんどが尾道、鞆の浦での撮影は
細かいショットを積み重ね物語の舞台を設計しているが、
何本も故郷で撮っただけのことはある。


十四歳には見えぬ娘の着物。
つんつるてんのアンバランスこそが魅力なのだ。



2019年7月10日水曜日

漱石「それから」

松田優作主演、森田芳光監督のを観ていたせいで未読だった。
あらためて読んで、新鮮。
そう、映画とは…、当然のこと違う。

森田監督は映像で伝えようとしたが、
漱石の文章にはいつも執筆された時代の匂いがある。
それが面白い。

今でこそ「恋愛」は、ある人にはあるし、ない人にも理解を得るが、
これも輸入品の一部だ。

    近いものはあったにせよ。
    日本にはなかった。

友人の平岡や代助の父や兄がフツーなのだ。
それでは恋愛は描けぬ。
そこでそのなきものを成立させる為に、長井代助という
いないキャラを拵え上げている。

その為の親に寄生し屁理屈をこねる高等遊民ばかりが際立つようだが、
今更読むと、冷ややかな傍観的観察者から明治期社会を眺める。

富国強兵と言いながら、経済も政治もアベノミクスみたいに実態は乏しく貧しい。
会社員は丁稚と変わらず、金を稼ぐ手段ではない。
この「経済」すらも輸入品なのだ。

政治家も資本家の贈賄、日糖事件に代助の兄が絡む。
この兄が接待やら根回しで多忙なのは今と変わらない。

しかもその事件、
地方銀行でしくじり上京して経済の新聞記者に就職する友人
平岡が借りた金もあり忖度し、記事にせずにいる。

ジャーナリズムの噂と忖度も昨今に通じる。
そう言えば、新聞も輸入品か…、瓦版は
町レベルのメディか…

その上京した平岡の越す家だ。
あまりにも建材やら間取りの安っぽさへの記述もあり、
不動産屋の悪知恵算段も描かれている。