偕成社の本。
その奥付には、昭和42年の刊行とあり、値段は280円。
多分、小学五年生の時にいただいた。
どなたからなのか…覚えていないが、親戚筋からだろう。
その当時はまだ読書少年ではなかったのか…六年生あたりで校舎の教室が
近隣の人口増で追いつかず、一時的に図書館が教室になった。
あれは、よかった。周りに本棚で無視できず、
ついに卒業までに五十冊読もうとの決心をした。
環境の刺激を受ける少年時代のことだ。
それ以来本の虫になったのに、家にあった佐藤春夫には手をつけなかった。
谷崎潤一郎は好きなのに、なぜだろう…。
佐藤と谷崎の奥さんのやり取りを巡る事件を知るのはもっと後だ。
「わんぱく時代」は大林の映画でも先に観て知っている。
若いアイドル娘とみればやたらと裸にするこの監督にあって、唯一の手柄はこの映画だ。
それが表現する時代性と内容に不可欠であり、
鷲尾いさ子を裸にしたのは実にエラかった。
淀川長治がルイ・マルの「プリティ・ベビー」のブルック・シールズに等しい
と記したが、それ以上だ。
「死ぬまで見たい100本」の映画に加えるべきか…
「わんぱく時代」が佐藤春夫の少年期、和歌山新宮の自身の物語なら、
この「野ゆき山ゆき海べゆき」は佐藤の枠を借りた大林の少年期。
鷲尾いさ子をお昌ちゃんに、このマドンナを中心にした展開に変えている。
原作とは大きくちがうのを、半世紀以上して読んで知る。
そして映画では描ききれなかったが、
戦争ごっこに興じるライバル、崎山栄がその後大逆事件で連座する。
佐藤は少年期と故郷の当時はわからなかった思いや人物の出来事を書いている。
これは、主人公の年齢は上がるが、
青年期の妄想や欲情をけんかで乗り切るうちに、
本物の喧嘩=戦争に呑み込まれて行く
鈴木清順の傑作「けんかえれじい」に近い。
この二本の映画は
この国が明治維新から国際的戦争に乗り込む大人になっていない
無知な勇ましい愚かな当時の空気を伝えている。
その意図があればこそ大林は演出表現を変えたのかもしれない。
日本人のわんぱく時代が度を越えてしまい
実際の戦争になるのを予感させるが、まるで小学生の学芸会のようだ。
しかも教師や医者の父、女衒などの大人たちは見事に紛争や化粧で戯画化されている。
棒読みセリフに一瞬、呆れるが、
これが日本がそのわんぱく時代にあることに重ねる効用は大きい。
その核に役者慣れしていない鷲尾いさ子のお昌ちゃんがいるように配している。
恋人の尾美としのりと山河を筏で流れ下る場面は映像的な快感、素晴らしい。
これくらいが和歌山での撮影で後のほとんどが尾道、鞆の浦での撮影は
細かいショットを積み重ね物語の舞台を設計しているが、
何本も故郷で撮っただけのことはある。
十四歳には見えぬ娘の着物。
つんつるてんのアンバランスこそが魅力なのだ。
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