2008年12月24日水曜日

お金のイメージ「ハーメルンの死の舞踏」




作者のミヒャエル・エンデ。
個人的にあまたの作家より親しみを感じるのは、著者と誕生日が同じだからだ。
いや、内容も素晴らしい。
戯曲として描かれている「ハーメルンの死の舞踏」だが、
最大の魅力は、お金が表現されていることだ。

地上のあらゆる物質と交換でき、時には
生み出した人間達の精神や誇りまでも破壊する力を持つ。

ある意味では魔法。

エンデは、それを象徴的意味を込める。

繁栄した町の地下には、巨大なネズミ大王の魔像、
これがぐるりと一回転すると、金貨を一枚
尻からひねり出す。

その小金の輝きの不吉な影のように
同時に
ネズミが一匹生まれる。

欲と権力にからた者達によって、町はネズミだらけ。

このイメージはいったいなんだろう…
と考えていたが、
瀬戸内海にある小島、別子銅山を見た時に、エンデのこの作品と同じだと思った。

地下に埋蔵されている銅を採掘、それを精錬するが
掘り出せば掘り出すほど
周りは公害に見舞われる。


光があればそこに影があるように
聖と俗の忌まわしさが潜んでいることを作者は描く。
しかし
これほど明確なイメージで「お金」が表現された作品を私は知らない。

2008年11月3日月曜日

ル・コルビジェ-終わりなき挑戦の日々


スイスのジュラ山脈の寒村にいた青年が、一人の教師に出会い、
アーティストから建築家を目指そうと思う決定的機会を与えられる。
これはその恩師レプラトニエがイタリア、シエナにて
大聖堂の研究スケッチ。

何度も生徒に話していたとか。

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今までに、この20世紀の建築の巨匠コルビジュエに
ついて書かれた本は、正直知りたいことがわからなかったか、
この本はよく書かれている。

おそらく、建築界としてコルビジュエを編集すると
ある程度の共通認識の下地が省かれるからだろう。

少なくとも描き手はそう感じてるんだろうと思う。

このジャン・ジャンジェの著作(創元社刊)にはそれがないのは、
対象が一般の、建築界以外だからということだ。

きっとそういった切り口、コンセプトで出版を企画すると
まだまだ魅力的な建築家が掘り出せるだろう。

2008年10月29日水曜日

崖の下の宗助



久しぶりに夏目漱石の小説を読んだ。
たぶんこの「門」の前に、谷崎潤一郎の「卍」を読んだ為だ。
正統の、オーゾドックスな面白さにすっかり感心、
もう少しこんな骨のある小説に触れたくなった。

漱石の「門」はその期待を裏切ることは無かった。

「古典はいつ読んでも新しい」

ゆえに、古典であり得るが、実に現代的な事柄がいくつも伺える。

なんでもそうだけど、距離をおかないと、
今のこの場所=現代は見えないのかもしれない。

崖の下の貸家は、地震や偽装建築を疑いながら
棲む我々だし、アンダーなウツのような色調はまるで今の世相だ。

今の日本をの社会を知りたかったら、
漱石を読めということかもしれない。

役所勤務の主人公、宗助は、来期には月給が上がるが、その際に
行われる「淘汰」を内心気にしている。

この「淘汰」という言葉の使い方がいい。
今なら=リストラだが、その和製英語には、人工的な行為しか現されていない。

細部にこそ神は宿る、と言うけれど、
文豪が「淘汰」と使う背景には、いくらか自然界の生物が急激に増殖し、
その後均衡を保つ為に死ぬ者生き残るモノが出る状況をさすニュアンスとして用いたように思う。

そしてこれと照応するごとく、物語の終盤、宗助は唐突に禅寺の門を叩く。
巻末の柄谷行人の解説によれば、この唐突さが当時、欠点となったとあるが、
漱石の心中には、「淘汰」と同様、人意などでは治まりきれなぬ存在を啓示している。

この小説が優れているのは、
作者が生きた近代的合理生活の中に、人の手が及ばない領域をきちんと示したことだ。

株価の暴落する今の乱世には淘汰であってリストラではない。

人間がすべてを操作できると考えるのは奢りなのだと「門」は諭してくれる。

2008年9月18日木曜日

制作の断片



宮崎駿の本。

面白いなと思うのは,考えていることや
疑問に感じていることなどを
映画を作るという要素の中に
呑み込んでいることでしょうね。

動画を作るのと、日々の社会的な事件への憂いや思いが
別々の作業ではないんですね。

そういえば、昔「風の谷のナウシカ」で、
終盤、大地を揺るがし襲い来る王蟲の一群。

蘇らせた巨神兵も腐って崩れ、逃げようとする兵隊に
クロトワが「いまさら、どこへ逃げよってんだ?」
と叫ぶ場面。


このセリフはイコール監督の心情の吐露。


作っちまったんだもの,今更に逃げらネェだろ。

そういうモノが放り込める,というのが実に見事。


改めて本読むと、なんて面白い思想家なんだと思います。

2008年6月27日金曜日

旅にでたくなる「宮脇檀旅の手帖」

建築家宮脇檀のスケッチ、
観ていると旅にでたくなる。
バスの車窓辺りから描いている。
泊まったホテルの間取りを実測したり、平面図に記している。














宮脇檀旅の手帖

2008年5月25日日曜日

やなせたかしの詩集2




「十二の真珠」。
その頃は、それほど装丁が凝っているとは思わなかったけど、
隅から隅まできっちりと手が入ってますね。

2008年5月24日土曜日

やなせたかしの詩集1





もう随分前。
あのサンリオが山梨シルクセンターだった頃の、懐かしい詩集。
やなせたかしの描く線。
いまだに好きですね。
これはその当時の、やなせ先生がコンサートをやっていた頃
いただいたサイン。

2008年3月22日土曜日

「宇宙のオデッセイ2001」


おそらく、たいていは映画で十分。

          原作本など、どこに読む必要があるか…

         あるいは、そう思わけるかもしれません。

しかし
原作本のハヤカワノヴェルズ「宇宙のオデッセイ2001」、
伊藤典夫訳は、映画とは違った佳作。

ボーマンが断ち切られたスペースポッドから緊急脱出をつかい、
真空の闇を通り抜けて、母船ディスカバリーに戻る

という
極めて映像的な場面は、
もちろん  原作では違ったシチュエーションで描かれてます。

     あれは映画的リアリティとしては見事なシーン。



ボーマン独り木星へと向かう後半の、それも
映像にならなかったところが魅力的です。

   詩的であり  文学的であり
   素晴らしいものがありました。

   最後に、
       その本からの抜粋、



「 やがて彼らは純粋エネルギーの静物に変貌した。

  幾千もの世界で,
  脱ぎ捨てられた殻がひとときひくひくと
  うごめきながら無思考の死の踊りをおどり、

         いつしか錆つき、塵にかえっていった。」




アーサー・C・クラークのご冥福を祈ります。

2008年3月11日火曜日

橋本シャーンの“踊る線”

名前を見た時、ああそうか。ペン・シャーンが好きなのだな、
と、絵の好きな人なら思うだろう。

それにしても、本家の線よりも軽快。
ここまでくるとじつに見事だ。

作者のスケッチに至る遍歴を本で知って
これまた納得した。

鈴木信太郎が描いた長崎のオランダ坂の絵はがき、
に惚れこんだそうだ。

しかし並のそれではない。
そこへ、その場所に何度も通うほど、とはすごい。 感心した。

- なるほど。そんな獲得の仕方があったのか!! -

人の、絵描きの数だけ、スケッチのやり方があるが,
こんな習得もあったのだ。

はて?
自分にも、これほど自由に解放された気分で
スケッチできるものかしら……?


これはぜひとも,試してみたい。





橋本シャーンのスケッチ旅に出かけよう

2008年2月14日木曜日

AldoRossi disegni 1990-1997

アルド・ロッシ。

このイタリア人の建築家は、
「建築家」としては必ずしも好きではない。
ドローイングやスケッチを描く人としてとても好きだ。


それは「建築」が3次元の産物であり、

「絵」の方が2次元だからだろう。

これは平面のマンガと
それをフィギュアにしたもの

あるいは、
「文学」とそれを原作にした「映画」のような関係に似ている。

現実化すると、自分が想像していたものと、
たいていはずれている。

色は確かに同じだが、
ここはもっと軽い質感でないと、

    …たいていこうなってしまう。



「建築家」という意味は、イタリアと日本。
また、例えば韓国とはかなりその領域が違っている。

たぶん急成長が停まらない中国では、
相当建築家という職業の内容も異なるだろう。

アルド・ロッシの絵がいいのは、
こんな場所に
こういう夢のような建物があったら…
という子供の夢想。

      この感じがいいのだ。




彼のドローイングを見る時に
そんな幼児期の感覚がふと、蘇るところが好きだ。

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Aldo Rossi: The Sketchbooks 1990-97

試しのトライ