
旅行する際の本として持参したのは、
この小説が適当かどうかよりも、たまたま手に取ったリョサ・バルガスの
若き小説家に向けての勧める文学の中に、
フローベールの「ボヴァリー夫人」があったという縁だ。
その時まで南アフリカへの旅行の際には
島崎の「破戒」を同行させようと考えていた。
古典のおもしろを知りながらも、
容易に読めないジレンマもある。
それだけの集中力を要するからだ。
しかし時々現代小説やそれに類するジャーナルを読んでいる自分が
「本の消費者」ではないかと感じる場面もある。
このフローベールの小説。
そのストーリーは、われわれの人生がそうであるようにありふれている。
しかし読んでいくうちの物語として自分の中で派生する印象は
鮮明な一つの自性体験でもある。
それが現代小説と如何に異なるのか…
その鮮明さ、リアリティという解像度がちがう。
そしてその強さからしか学べないものが確実にある。
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