2020年7月10日金曜日

「実説艸平記」内田百閒

「実説艸平記」はちょっと落語的面白さにあふれている。

文士、森田草平のことを書いている。
百閒先生も漱石門下だが、森田は先輩格であり、
皆が知る「坊ちゃん」のうらなりのモデルとして有名だ。
己にとっては、谷口ジローと関川夏央の
「坊ちゃんの時代」の漫画が一番身近だが、
本人にあったこともないけど、あの顔。既にキャラに満ちているではないか。

めっぽう女に弱い人生で、しかも女にだらしない森田草平だ。
やはり
おかしいのは、車中同郷の美人の知り合いと一緒になり
電車の便所へ立つ。
ところが、水が流れない。しかたなく
真っ白い陶器に残る廃物を残したまま席に戻ると
今度はその美女が便所に行くと立ち上がる。

百閒先生の教鞭をとっていた大学でのシリアスな教師陣の内輪もめ
それにほいほいと担ぎだされた森田草平。

なによりも憎めないほどで金をかりにいく内田百閒との
奇妙な関係にも笑ってしまうが、その割には冷徹な観察眼による描写がいい。
そんなおかしな交友関係なくして「実説艸平記」はない。

著名人たちのこんな伝記がもっとあってもいい。


2020年6月30日火曜日

内田百閒の続き


ラジオ小川洋子の紹介を
機会に内田百閒「柳検校の小閑」を読みはじめ、その他の未読も読んでみた。
全集では「残月」のタイトルとなっている。

夢を描くのが上手なだけあるが、これは手と耳の短編。

主人公は盲目のお箏の先生。
目は不自由だが視力以外の気配の感覚はするどく、見えぬ暗闇に
心惹かれる相手を見る。
その繊細な心模様が微かに触れる手の感触のように伝わる。
しかし関東大震災、想いは実らず、
ゆえに深い余韻が残る恋愛小説とラジオで語っていた。

その検校だが、「朝雨」は、
親交深かった宮城道雄が亡くなった後の辛い気持ちを書き記している。
尾道へ来てから毎年行く鞆の浦。
民俗資料館にこの琴の名人の記念コーナーがあり港町を見下ろすように
彫像があった。


昭和38年に新潮社刊行の日本文学全集23と2000年代版の東雅夫編集、
新装アンソロジーのを平行に読んでみるが、百閒先生には旧漢字やらがとても合う。
文字に閉じ込められた時代の気配が何とも云えぬ。
ちなみに
内田百閒、中勘助と坪田譲治集で
中野、新井薬師には妻の実家があった「銀の匙」の中勘助が63歳の時
疎開先に棲んでいた。
そう言えば大妻学園の、あの辺もかっての散歩コースだったが、
住宅はどうなったか…墓は変わらないが家はもうないだろう。

それとこの全集三人の解説を「魔の山」を訳した
ドイツ文学者高橋義孝が書いている。
この人は、「まあただよ」でいなくなったノラを嘆く百閒先生を案じ、
所ジョージたち元生徒が探しまわり猫為に新聞広告やらをするが、
その時のひどい電話、ノラは死んだよという主がこのドイツ文学者だった
と何かに書いてあったと記憶している。

本当だとすれば、いや
そうでなくともこれも含めて百閒先生的なエビソードではないか。



2020年6月29日月曜日

内田百閒を読む

以前いた上高田の寺に、この作家の墓があった。
内田百閒を愛した生徒やらが建てた墓なのだと云う。
林芙美子も吉良家の墓も隣りの寺にあり、史跡的な散策コースだった。


ちょうどいい散歩で、ついで何度かお参りに寄ったが、
初めては…黒澤明の遺作の時か…忘れてしまった。

「まあただよ」は内田百閒と彼を慕う元生徒たちとの交流が描かれるが、
大学時代観た「ツィゴイネルワイゼン」の方が遥かにおもしろかった。

狐系眷属の妖婦の如き大楠道代の怪しげな雰囲気が見事とな配役だった。
狸系の代表は、白石加代子はだらう。

あの妙な感じ、鈴木清順監督が創りだした怪しげな演出か、「けんかえれじい」も
素晴らしく妙な、妄想男子の性的リビドー演出が愉快と感心したが、
小説を手に取れば、
スクリーンでの魅力は原作の本領こそ百閒なのだと知る。

あの「まあただよ」キャラと小説がまるで異なるのは不思議。
黒澤の映画自体素晴らしいが、内田百閒の小説となんだか一致せぬ。
(彼の夢小説の不気味さを黒澤はどう思っていたんだ…あっちのが合いそうだ)

多分黒のみにとどまらず白の百閒も読んでおくべきだった。
今現代では当たり前になったあのペットロスに嘆く老人が、元祖の人物なのだ。

「特別阿房列車」もおかしい。こちらは元祖「鉄ちゃん」だ。
用も金ものないのに鉄道に乗りたがる作者でわざわざ金を借りる算段してまで、
大阪行きの列車に乗ろうとする。
一等にすべきか弁当は、などなど悩む様
空想に算段に算段を重ねるのが愉快に描かれている。


「棗の木」も白の百閒。
妙な高利貸しからの催促のやり取りが面白い。ついに裁判にまでなるが、
そのやりとりは落語みたいだ。
それだけ個性的な風変わりなキャラを洞察し描く百閒が面白い。
この短編は水木しげるのよう。


2020年6月14日日曜日

「三島由紀夫全集32」と「金閣寺」

「三島由紀夫全集32」の評論編と長編「金閣寺」と併せて読む。
なるほど面白かった。
「金閣寺」は完成度が高い。
またこの巻にある「美徳のよろめき」も読んでみるが、
映画になりそうな中編小説だ。
だが、撮り方が難しそうでひとひねりいるばずだ。
シリアスにやっても伝わらない。
中平康監督、脚本新藤兼人で制作したらしいのだ
それを…新婚旅行先で観た三島がひどいと嘆いている。

「切腹」には大いに感心する三島は「何がジェーンに起こったか」は二流という。

彼の遍歴でデビュー当時を知る。大蔵省にいた彼は川端康成を押し掛けたり、
人気作家となったばかりの太宰治の「斜陽」を嫌うが当人と対面する積極さを見せる。

後は「切腹」の残酷美には大いに感心しているのが頷ける。
「何がジェーンに起こったか」は二流
「アラビアのロレンス」が英雄としての描写不足だという。

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山口百恵版の「潮騒」を観る。
どちらかといえば都会的なタイプ
ふんどし姿の友和に萌えるが、この作品にはアイドル的すぎるだろ。
吉永小百合版と色々あるが一番最初の青山京子版を三島は褒めていた。
とりわけ青山が良かったという。

三島は己の小説の映画に関して
まったくと云っていいほど評価することがなかったのは、
彼の小説を理解するほどの知性ある監督がいなかったからだ。
脚本を見せて作者に修正を求めたのに、またもとにもしての映画化など
怒りを隠さず随想に書く。
そのエネルギーが戯曲に向わせたのだろう。
市川崑の「金閣寺」、「潮騒」はその中で珍しく評されたものだ。

今ならば…日本じゃ無理か、
韓国ドラマで再映画したらいいだろうな。


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全集27の評論編。
1925年「アポロの杯」はまだまだ渡航しにくかった三島の海外旅行記。
その一つ。
ニューヨークでの「羅生門」が知識層に好評な驚きを記している。

2020年6月4日木曜日

「希林さんといっしょに。」是枝裕和

以前から
母の年代を代表するような映画がなかったのは不満だった。

「さびしんぼう」のマシュラあだ名の浦辺粂子も
「八月の狂詩曲」のおばあちゃんもちがう。

余生ばかりで業がないのだ。

もっと身近なキャラクターがあっても
と勝手な不満を抱いていたが、
ある時から希林がその個人的な母像と重なってきた。

このインタビュー集「希林さんといっしょに。」
も面白いタイミングで読んだかもしれない。

樹木希林は己の母と重なるイメージで鑑賞してきたが、そうもいかなくなってきた
はっきりと意識したのは…
「歩いても 歩いても」、「我が母の記」、「海よりもまだ深く」あたりで、
「万引き家族」の肉体の衰えを晒すさまに至っては
他人ではなく己の母を見守る思いがした。

去年九十歳で冥土へと旅立ったが、なかなかの濃いキャラで
食事や旅行の際など、生前細君がひどくおもしろがっていたが、
生々しい血の系譜を思い煩うと、忌々しさの方が勝り
容易に愉しめなかったのだ。

元々この希林に似たキャラで、
「ほら、あなたのお父さんよ」と
自らの選んだはずの亭主を見知らぬ第三者の如き云う時の
母の位置づけはどこにあったのか…
早くも息子の記憶力が彼女のよりも劣化したと感じられると
たちまちこのような回りくどい表現をするのだ。

「ああ。お母さんのだんなさんね」
と応え、以前の腹立たしさも爆笑に変わった。

よくある話だが、いなくなってみれば
どれも年寄りのたわいのない毒っけのようで懐かしい。
それほどの隔たったの距離になった。

しかし、希林のような老婆女優が
なかなかいなかったのは、ちょっと不思議な気がする。

有吉佐和子の「恍惚の人」の映画版は、森繁だったし、
大林宣彦の浦辺粂子の老婆も、宮崎駿の「トトロ」や「ポニョ」のも
ちとちがう。
希林はそれ以前の老いた母像を刷新したのだ。






2020年5月21日木曜日

三島由紀夫全集「春の雪」「奔馬」

大長編小説「豊饒の海」をはじめの「春の雪」にもどって読む。

この輪廻転成することから手塚治虫の「火の鳥」に似ていると
述べる輩がいたが
生々流転をダイナミックに描く漫画とはでまるで違う。

三島手塚いずれも育ちはいいがこれは、三島由紀夫の近代王朝文学。

三島は建築的文体の巧みさで伽藍の虚空を描くが如くの力量で
書きすぎてはいないし、構成がしっかりとして実に見事。

わざわざ使ってもない漢字の数々、辞典引き読書だけども、
その効果は確実に古の空間に光を導き深い陰影をもたらしている。

主人公、清顕の家の伝来の儀式が印象深く、これがこの四編物語の象徴の一つ。

八月十七日の夜、
盥に張られた水に月が映るかどうかで占われる松枝家のしきたり。

「清顕には、それが露芝の上の裸の魂形ののやうに思われた。
 その盥の縁のうちから彼の内面がひらけ、縁の外側からは外面が…。
 凝固したかのようなあいまいな闇が破れて小さな明らかな満月が、
 正しく水の中央に宿った。」

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それに続く「奔馬」。

前編の清顕とこの勲は、弱と強の双子か、だから輪廻転成したのか…
わからないが、飯沼勲は三島少年のあるべき理想像に近ひ。

これも作者の分身。それもしかたないことか。
その分身だが、先の四編め「天人五衰」、ここで転成した透とは、
邪と狂気の兄弟。あるいは陰陽に思われるが、美しいグロテクスで
清く正しい狂気でもあろう。

勲の少年のような童貞的純粋さで膨らむ妄想的大和魂が決起する先は、
金銭欲に腐敗した財界人へ。
汚れなき刃でのテロリズムが成功するのか…
その展開に急ぎ心騒ぐのは、
この時代に生きれなかったのが悔やまれた三島由起夫の見事な腕だろう。
とても面白く読める。

禅について云えと言われても困るが、卑怯についてなら云える気がする。
その卑怯を嫌悪、いや
憎悪する少年期の、冷たく光る刃の輝きがあった少年期のことを
思いだしてしまう。



2020年5月17日日曜日

タイの文学「アジアにかかる虹」「業の罠」

バンコクでの感染対策報道を観る。偶然、いや
こういうのは偶然とは表現しない。
必然的だがバンコクのスラム街、
クローントゥーイの取材でプラティープ女史が支援を訴求する姿が映し出される。

その彼女の人生を紹介するのが「アジアにかかる虹」。
とくに予備知識もなく読んだが、不思議な構成だ。
目覚しい発展のタイの陰、そのスラム生まれの少女が働きながら小学生、
高等師範夜間部を卒業し、
劣悪な環境のスラムで私塾の学校を創り運営していく。

そのスラムの子供たちと住民たちと生活の改善のために闘いと功績を
プラティープ女史の描いたのが本書で、
あわせて都市問題から派生するスラム問題、
その住民の性格や考え方について知識を深める報告書ともなっている。

つまり女史はいまだに元気で活発にこのバンコクのスラム街で活動している。
かつてはこの本にあるようにバンコクの低所得層の住処だったが、
現在は海外からの労働者たちの場になっている。
スラムに変わりないが、内容が変わっているのだ。

「業の罠」ドゥアンチャイ著。

派閥なしの男が一種の権力均衡の果て学部長へ、
妻帯者の彼と美人先生との不倫なのだが、
タイの文学の新鮮さは、不倫恋愛と大学制度との現代的な社会問題を
絡ませているところだろう。

普通なら枠組みしないものが同居する面白さのような気がする。
それが風俗的ならないのかもしれない。

2020年5月6日水曜日

永井荷風「日和下駄」


 荷風が下町を歩いたのは、東京だからだ。

たぶん、今の緊急事態で人の少ない東京の街は過去の面影を蘇らすのに
かえっていい機会かもしれない。
それにしても
まさか己が永遠の翁爺、永井荷風を読む。東京散策を好む者に成り果てる、
とは信ぜられぬ。人生何が起こるかわかったものではない。

 「今日東京市中の散歩は私の身に取っては生れてから今日に至る過去、
  生涯に対する追憶の道を辿るに外ならない。」
散歩の王者の「失われた東京」への想いだ。

都市の生活空間の変貌ぶりが愉快に感じたのは、永井荷風が山の手住まいに原因があろう。己が尾道いるのと同じく離れる歳月が長くなるほど懐かしさの幻想、面影故である。
記憶が蘇ったり新発見がある。
案外起伏の多い街はその視覚上下動はあらがえない魅力でもある。
お茶の水のサイカチ坂、昌平坂、その名称だけで風景が見えてくる。
アメリカ、フランスでの遊学から帰国後、大正のはじめに書かれ、ここでも
すでに東京は失われているという「日和下駄」を読むと、
あきらかに時代を隔ているのに想いの力で蘇る記憶がおもしろい。

相撲中継にわずか映る国技館の様、両国駅の旧駅、別の世界。
まるであすこにいた時代とは異なる街だ。
安田庭園も見えず江戸東京博物館、スカイツリー、更に高層ビルが目立つ。
餡バターパンの狭いパン屋、まだ都電が行き交う広々さの路面。
古本屋目当てに歩く石原町。
多分歩くと嘆きも多かろうが細部に記憶が蘇る。

二度目の五輪前の首都工事の光景に仰天した…か、いや
永井が生きて嬉々として歩き愉しんだろう。

明治維新以後、急激な近代化の道を歩まなければならなかった東京、
次々に古いものを壊わし、新しいものを作らねばなかった
失われる為の首都は、徹底的に不思議さに満ちている。

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すっかりBlogにログインできるようになったので下書きのままも更新。



永井荷風「断腸亭日乗」読み終える。
やはり敗戦辺りが面白いなあ。彼の住まい偏奇館が空襲で焼ける。
あの年で蔵書やらを失うのはかなりの大変だろう。
だが、ほとんど東京中がだったから失念している暇さえもない。

帰る家もなく知人宅へ、そこから岡山に行くものの、
そこでも空襲に遭うが、運の強さに驚く。
いや、疎開してでは…運がいいのか悪いのか、まあいいのだろう。
しかも彼は結構な長生きだ。

ふと、年表を拝見すると、永井荷風は若い頃から年寄りイメージ、
いやいや、そうではない。
それを目標に生きているおかしな人だ。

見習いたいものだ。

後日「ディリリとパリの時間旅行」を愉しく観た。
これは監督のミッシェル・オスロの幻想するこうであったらいいという巴里ガイドだ。
パリがパリとして咲いたベルエポックの時代。
世界で一番美しい街のパリだ。
これならだれでも風景画、風俗画を描きたくなるはずだろう。
芸術家たちの面影が生きる街は縦もが特に綺麗だ。
おそらく訪れても観光の今のパリにはない。

永井荷風が描いた「失われた東京」とはこれに近い感覚なのだろう。







        

2020年5月4日月曜日

志賀と三島-三島由紀夫の「文章読本」

全集にある三島由紀夫の「文章読本」を読んで、志賀直哉を名人と認めながらも
「パルムの僧院」を読んだ志賀のあまりに作家的ではない
一般素人的発言を捉えている。

なるほど。そうだ。

志賀は得難い書き手でありながらも、すなわち良き読み手とは云いがたい。
それは映画鑑賞眼にも言える。
幼少からの映画好きなのにまるで素人以下だと感じたのは、
伊丹十三監督の「赤西蠣太」。

黒澤明の「羅生門」は認める節があるのだけど、
あの名作には不満を隠さない。
己の原作との相違に気が散るのはわからなくもないが…作家的意見ではないし
どう公平に見ても、この人映画わかっているのかしらと
首を傾げてしまう。

三島のこの精確な見解が、ぼんやりしていた志賀人物を知る上で合点したのだ。
やはりこの方、小説でありながら生業とは分離した人だ。
まあ、その点では三島も似ているが、その三島は「暗夜行路」についても。

これほど官能的な小説は世界でも珍しいが、「源氏物語」、「好色一代男」の
日本的伝統でもあると言う事を記している。

あの
おっぱいを豊作だと祭りのごとく叫ぶ時任健作の話は、
かなり年上の女中との縁談とか、なんか始終女の話ばかりの長編だ。

あれは、何度読んでも志賀的でないような…
へんな小説ではないかと思っている。
なのにあれは短編の名手にとっての唯一の長編小説でもある。
しかも
これに費やした志賀直哉の歳月、その執念深さにも感服してしまう。
全集を読むと手を替え品を替え何度も書き直ししているのがわかるんだけど、
こうなるとどれがいいのか、読んでいる方だってわからないなと感じる。

そんな凄まじさの一方、職業的ではやれぬ証でもあろう。


さすがにこの「文章読本」を読むと、
三島は多種多様なものを読み込んでいる。
そう言えば、こっちはあのルキノ・ヴィスコンティの映画
「地獄に堕ちた勇者ども」を絶賛していな。

映画パンフレットの宣伝に出ていたのを思い出した。
それも三島らしい映画が好きなのだろう。

2020年5月3日日曜日

三島由紀夫全集「天人五衰」


「暁の寺」に続き、「天人五衰」を読む。
覗き趣味老人本多の養子となる透は作者の悪なる分身なのか…。
必ずしもも読みやすいとは言えない。
やれやれ、こんな漢字があるのかと辞書をひきながらの読書も三島ならではだろう。
記憶では三島は文章につまると辞典を見る、すると描けるようになったとか。
読む方にしてみると、その逆か。

この章はなかなか面白かった。
さて、風変わりかもしれぬが、いっその前に「春の雪」戻りも読んでみようと思う。
年表からすると、三島をこれ、「天人五衰」を書き上げた年、
自衛隊での自決を敢行、その後の作品を読む事は叶わなくなった。

この人は。
自衛隊自決があり、若きアイコンとタレント的性格であの風貌が流布している。
その割にかれの位置づけが不明まま彷徨っていたが、
三島バイオグフィをあらためて見ると父親世代なのだ。
また義理の父と似たような金持ちのせいなのを文の中エッセイあたりに感じる。
よく言っていた3S。
アメリカの日本支配権化にする為の戦後政策で、三つのSとは、
スクリーン、スポーツ、セックス。
これを日本人に与えれば、帝国的乱暴者から解脱すると言う見解。
なるほど言われてみれば、
             そのとおりなのだが…

全集は小説以外も納められているから、周辺も知るのだけど
三島は川端康成の媒酌人で画家の娘と結婚している。
あのスフィンクスの絵。杉山寧の娘だ、
竹橋近代美術館ではじめてみたときには
あの蒼い背景に浮かぶスフィンクスの顔が印象的だった。

もちろん 美大生を目指していたから
正直に言えば、これ、日本画なのか…とか、なんでこれ描くのか
など息の荒さばかりできちんと評価なんかしていない。
しかし忘れがたい
絵の力は未だ頭に残り、あのスフィンクスに謎かけられたままだ。

そして
 これが己の三島由紀夫文学のイメージの一つでもある。