2011年12月23日金曜日

「一〇〇年前の女の子」船曵由美

この本は
   どのようなジャンルに入れるべきなんだろう…

1909年に生まれた自分の母親の生涯を描いてはいるが、
宮尾登美子あたりのようなドラマチックさはない。

例えれば
    映画ではなくドキュメンタリーに近いと言えるだろう。

ストーリーよりもその当時の習慣や生活のあり方が
生き生きとした物語になっている。

お年寄りを前に、語ってもらっている
そんな感覚の距離感がとてもいい。

誰かが言っていたが、80歳くらいになると
それまで遠い歴史だと感じていた明治が体験などしてないはずなのに
近くなる気がする、
         90歳くらいなったら江戸なんか
          もうすぐ目の前だ、とか。

この話に頷けたのは、この私の身にもそうした実感があるからだ。
つまり、

未来よりも過去の方が縁が近い訳である。

これはいままで考えもしなかったことだ。

高齢大国なら、こういうのは新しいジャンルで
それならではの読み方なのかもしれない。

2011年12月14日水曜日

「うみべのまち」佐々木マキ自選マンガ集

最近は書店をのぞくと、懐かしいと感じる
作家の本が新たに出版されている。

その昔、友達が手塚治虫の過去の作品を体験するには
新刊ではなく、色が変わったざらざらの方がいいという
ことを言ったが、

新刊には新刊の、新しい紙の良さがあるものだと認識した。

この本のあとがきに、「マンガの神様」の逆鱗に触れた、とあるが、
その気持ちはわかる気がする。

しかし本当に魅力的な流れ出てくるような絵だ。
佐々木マキは、キース・ヘリングのようだ。

日本の漫画の奥行きの広さに感心する。

2011年11月26日土曜日

「菜食主義者」ハン・ガン

韓国行きも決まり、友人が教えてくれた「スッカラ」を購入、
まるで韓国観光旅行者の同人誌みたいな…雰囲気の雑誌。

そこに紹介されていたこの本を、早速読んでみた。
なかなか読みやすいレイアウトとサイズ。

三節に大きく分かれているが、

ひとつめでは
夢によって肉が食べられなくなった妻、ヨンへ、
これは韓国の小川洋子みたいだと思った。

ふたつめが、ヨンへの姉の旦那、これがビデオアーティストが登場し、
最後は、その姉から視点に変わる。

読み終えると、なるほど
           家族がこれほど深くかかわるというのは
           なにやら韓国の

                 岩肌の隆起した山を思わせる。



2011年10月30日日曜日

「紙の民」サルバドール・ブラセンシア

まずこの本は、装丁がいい。

なにしろ紙が主役であり、コンセプトなだけのことはあります。
本のガバーを剥がすと、裏面にもテキストの原文が印刷されている。
それと、おもしろいのは、
帯の宣伝文がじつは表紙に折り返してあり、カバーと一体になっている。
いいアイディアだ。

それからテキストのレイアウト事態が各章ごとに
大きく変化する。
このようにマルチになったり、
ページにシンボルが入り、テキスト文を隠したりと
かなり激しく変わる。

内容?

マルケスの「百年の孤独」を三年繰り返して読んだというだけの
ことはあります。




2011年10月17日月曜日

「おもろい韓国人」高信太郎

韓流ドラマを見ていると
これは日本じゃ成立しない場面があったりする。
それが韓国人論なのか彼らのドラマ論なのか…
いまひとつわからないことがある。

ちょっと出版されずいぶん時間が経っているが、楽しく読めた。
女遊びまで正直に書いた文化論はそうあるものじゃない。
さすが漫画家である。

韓国ドラマをよく見るにつけ、同じアジア人でありながら
本当に違うなと感じる。


日本人との差異が上手く表現できないが
半島と島国ではたとえ些細でも違うモノは違う。



中国人よりも近いシンパシーだし、
遠縁の兄弟的な感覚が強い。

韓国の場合、同じアジアの中でもその
嫌悪感と魅かれる磁力の不思議な強烈で強いせいだと思う。

2011年10月3日月曜日

「蒼き海狼」

こういうNHK的な歴史小説は最も読まぬ分野の一つ。

山本周五郎の「樅の木は残った」と吉川英治の「宮本武蔵」が
唯一それになるが、この二つは果たしてその歴史小説にあたるのか…
いや、もっと普遍的だと思う。

しかし書店で驚いた。

こんなに歴史物があるのか!!!

それも… まるで ライトノベルみたいな…

つくづく日本の出版は通勤会社員がささえていると感じる。
火坂雅志のこんなの本もある訳なのだと痛感する。

2011年9月20日火曜日

石牟礼道子「苦海浄土」


ミヒャエル・エンデの「ハーメルンの死の舞踏」には、お金のイメージが明確に描かれている。
あの笛吹きが街から大量に派生したネズミを笛で退治する話が用いられ、
エンデはお金の魔力をとてもうまく表現している。
欲と権力にかられた街の権力者たちが地下に秘かに巨大なネズミ大王の魔像を隠しているが、
この無気味な像を一回転させると、その尻から金貨を一枚生み出す。
と同時にネズミも一匹うまれる。これが街をネズミだらけにし、病気を蔓延させている。
なんとも的確で象徴的だ。
「苦海浄土」を読むと、この寓話どおりなのだ。
水俣の美しい内海が窒素の工場の廃液で汚され、やがては魚をとり食べる漁師からあの忌わしい病状が出てくる。
不知火の田舎に産業と雇用の幸福をもたらす窒素工場は、陰と陽の金貨とネズミを生み出す魔像のようだ。
社会生活の未来とお金を生み出す一方で毒を生み出す。
しかし読み手を震えさせるのは、廃液を浄化したという偽りの広報と、県や国の無関心さだろう。

おそらく3.11の原発事故が起こらなければこの本を読む事はなかったかもしれない。

2011年9月6日火曜日

「夢の場所・夢の建築」

相変わらず個人的な作業として夢の絵を描きとめている。
そんなことをしているから
やはりこういう本には魅かれるのだけど。
見た夢を平面図で記録するというのが、
いかにも建築家らしいのは、
それと、分析しようと試みる点。
杉浦康平のデザインなんだけど、
今ひとつ。
内容もだけど、対談がわりに良かった。

2011年8月6日土曜日

「姉妹ベッド」バルザック

晩年の作とあって完成度が高い。

特に興味深かったのは、作者の創作論が語られている。

着想と言うのは、楽しみなもので、その制作、生み出すのは赤ん坊を育ているようなものだと語っている。しかもその子が美人とは限らないし、育つともいえない。

「素晴らしい作品の着想をあたため夢想し、あれこれ考えるのは甘美な仕事である。
それは魔法の葉巻をふかすことであり、気まぐれに耽って楽しむ高級娼婦のような生活を送ることにもひとしい。そのとき作品は幼年時代の若々しい魅力を放ち、生命の誕生の狂おしい歓ぶうちに、ふくよかな花の香りをふりまき、早摘みの果実の甘い汁をしたらせながら現れる。芸術作品の「構想」とその楽しみはこのようなものだ。
自分の着想を言葉で描きだせる者は、それだけで才ある人間だと思われてしまう。
このような能力ならどんな芸術家にもそなわっている。ところが実際に作品を生み出すとなると話は別!作品を分娩し、生まれた子をせっせと育て、毎晩乳をふくませて寝かしつけ、母親のつきぬ愛情を持って毎朝抱きしめ、汚れたからだをなめてやり、すぐに破いてしまうとわかりながら、何度もきれいな着物をきせてやる。手に負えないこの生命がどんなに騒いでもたじろがず、もしそれが彫刻なら万人の目に語りかけ、文学なら万人の知性に、絵画なら万人の思い出に、音楽なら万人の心に語りかける傑作に仕立て上げること、それが「制作」であり、その労苦である。頭の言うとおり、たえず手が前に進まなければならないし、どんな時にも働けるよう準備ができてなければならない。ところが恋が続かないのと同様、頭脳もまた創造的姿勢を保てるとはかぎらないのだ。」

作中でヴェンセスラスというポーランドから亡命した名門貴族が、
パリで自らの才で彫刻家としてデビューするが、
着想と女にうつつを抜かしてしまう。

バルザックの言うとおりだ。

ジャクソン・ポロックのように絵の具をたらす「着想」だけあっても、
ポロックのような絵になる訳ではない。

2011年7月30日土曜日

「芸術闘争論」村上隆


読んでいて、同意も意義もある。

(当たり前か…)


ピカソ以降の現代アートの流れのひとつの仮説が提示されているが、その解釈がおもしろい。

かえって批評家ではこういうおもしろい文脈ができないのかもしれぬ。

しかし一方で西欧の文脈(ルール)にも違和感を覚える。


たしかにベニスビエンナーレを見ても「なんだこれは?」

時代にもなににもはまらないものの方が多い。

推定すると、それがあって3割の戦いが現代美術なのだろう。


学校について見解も刺激的だった。

たしかに、あれは生徒をダメにする。


しかしお金を払うとお客になるという傾向は奇怪至極。



日本人のゴッホ好きが貧乏に由来し、ピカソが揶揄されるイメージは

極東の島国の特殊な感覚だ。


著者のやっていることは、とても意識的。

そういえば一度フランクフルトの乗り継ぎ待ちで見かけたが、

意識的で感の強いタイプのように伺えた。


ナカナカ刺激になった。


2011年7月4日月曜日

「あら皮-欲望の哲学」バルザック


解説によれば、それまで無名だったバルザックを文壇に知らしめた成功作とか。

珍しいことに、この小説は寓話。

落ちぶれた貴族階級に属する貧しい青年が、賭博で最後の蓄えをすってしまう。
絶望し、セーヌ川に投身自殺しようと思った時に、
偶然、川岸の骨董屋に入り、奇異な獣の皮に魅入られる。

これまた謎めいた主人が、その皮には魔術的な力があり、
所有する者の願いを叶えるという。

ただし、叶うたびに皮が縮み、その大きさが余命を警告する。

昔よくあったあの話である。

バルザックが「猿の手」みたいなタイプのアイディアを使っていたとは知らなかった。
だってこの文豪、
「あら皮」的な人物をストーリーの中に組み込むと思っていたからだ。

そんな点でも一見の価値があるかもしれぬ。

2011年6月27日月曜日

「フェリーニ 映画と人生」


「魂のジュリエッタ」の後、
カフカ的な小説を得意とするディーノ・ブッツアーティ
映画制作に意欲を燃やしたと言うエピーソードがある。
なるほどそうか...........
二人ともイメージ豊かな絵を描く者同士だ。

【フェリーニの別記事=http://s-tusin.blog.so-net.ne.jp/2011-05-15】
【フェリーニの絵=http://blog.goo.ne.jp/t-tusin07/e/6e15121f4848e426ba4c5b724183d524】

これがうまくいっていたらどんな映画に成ったのかと夢想する。

本心なのかどうか、映画監督の中で、
ほとんど他人の映画を見なかったというフェリーニ
他者からの影響をひどく恐れていたんだろうか。

2011年6月1日水曜日

バルザック「従兄ポンス」

バルザック生誕200年記念をして
1999年に新たな翻訳での「人間喜劇」の刊行、そのシリーズの13巻がこの話。
なるほど、こういう訳なら「ゴリオ爺さん」も鹿島茂の訳でもう一度読んでみよう、と思う。

(過去記事のバルザック「ゴリオ爺さん」→http://s-tusin.blog.so-net.ne.jp/2007-09-12)

バルザックの小説は、黒澤明の「生きる」とか「どん底」を思い出してしまう。
主役ではなく脇役やちょい役級てせ、その人間観察の鋭さにある。
たぶん黒澤自身が好きな作家で存分に読み込んでいるからに違いない。

また、映画の話しになる。
この哀れな目利きコレクターのポンスの話しを読み終わったら、
偶然にもあのバルドーが良家の作家の卵の役の、
「裸で御免なさい」(1956年マルク・アレグレ監督)を見た。
この世間知らずの娘が妙な風俗小説を出版し、将軍の父親の逆鱗に触れてしまい、家出。
パリで画家として大成したという兄を頼るが、住まいがバルザック博物館なのだ。
ただの管理人なんだけど、妹の方はそんなことは知らず…
同業の小説家のくせに、バルザックがだれかもおそらく知ってはいない。
お金に困り、「谷間の百合」初版本のサイン付きをこっそり古本屋に売り払うことから
後にもめ事に成る。
買い戻さないと刑務所行きで、素人スリッパーコンテストに応募すると言う
いかにもフランス的な映画なのだ。

コチラはフランスに行ったことがないからわからぬが、
どうも本物の博物館で撮影しているようだ。
娘の兄が、観光客を案内するが、禁煙だと言いながら口からタバコを放さず、
やたらと触りたがる御婦人客がいたりと…

ちょっと本筋とは違うフランス人の感覚に感心してしまった。

この脚本を例の女たらしで夫だったのロジェ・ヴァディムが担当しているが、
こちらは黒澤明と違い、バルザックは読んでないじゃないかと思う。

2011年5月29日日曜日

「わが生涯 チェッリーニ」


ルネッサンス人が何を考えていたかがよくわかる自伝だ。
しかし、まてよ。このチェッリーニの自伝は、晩年
若い弟子に自らの過去を話すことで綴られている。
どう考えてもそのあたりはフィクショナルに誇張されるかもしれない。
でも事実が自伝と定義するのはこちらがルネサンスの時代に生きていないからに過ぎない。
そういうところ含めて読む必要もあるんだろう。

さて。

ウィリアム・ワイラー監督の「おしゃれ泥棒」を見ていたら
オードリー・ヘップバーンの贋作作りを生業にする父親が
チェッリーニの作だというビーナスの彫像を展示に貸し出す。
しかし
これが偽物で、祖母がモデル。
              でヘップバーンに似ている。
うっかり保険にサインしたことから、科学的鑑定をすると贋作と発覚する。
その前に盗むというストーリー。

わかって見ると、少しは昔の映画も違って見える。

2011年5月4日水曜日

「ロック冒険記」手塚治虫



久しぶりに再読。
絵もコマ割りもとてもいいバランス。

これくらいの時期の手塚の絵柄はとてもいい。
必ずしも描写が細かくなったりする必要がない
と思いますね。

コダマプレスの昭和41年版の印刷が絵の表現にもあっています。

2011年4月26日火曜日

「青べか物語」山本周五郎

山本周五郎に勢いがついた。

この実在する浦安(この小説では「浦糟」となっている)を舞台にした話を読んで、
長年の思いが解けた。

大昔の知り合いだった森田老人のことだ。
彼の人生観というほど大げさではないが、
なんだか東京の人とは直感的に異なる土着性がずっと心に残っていた。

この本を読んで、その森田老人に再会した気分だった。

「青べか」は、ディネセンにとってのアフリカのキクユ族と同じように
山本周五郎を魅了する。

まるでマイケル・カコヤニスの「その男ゾルバ」にも似ている。

この浦安やアフリカ、クレタ島は、
近代化で一層された都会とは別の論理や規範で世界が構成されている。
別世界なのだ。

その土着性の強烈さは、まるで民俗学者の宮本常一の「忘れられた日本人」さえも思い出させる。





2011年4月17日日曜日

「ジャック・ロンドン放浪記」



最近、それもつい先月のことだが、
公開当時見損なった

ロバート・アルドリッチ監督の「北国の帝王」を見ることができた。
これが名作かどうかは知らないが、1930年代の大恐慌の時代、

ホーボーの名人
リー・マーヴィンが列車にタダ乗りするシンプルな話だ。
そして当然のことながらそういう輩を放り出す
鉄道側の車掌や制動手がいるわけだ。

それが鬼顔の悪役アーネスト・ボーグナイン。

この自伝を読んだら、
若造のジャック・ロンドンは映画そのまま。

ちょうどあの作品でナンバーワンに成ろうと誇りを賭けるホーボーと
その阻止に意地を賭ける制動手との間で、
ある意味一番、リアルな、
若者キース・キャラダインは、この映画での役回りを別にすれば
まるでジャック・ロンドンその人のように思えた。

39年の短い生涯で、ハワイでサーフィンしたり、日露戦争の派遣従軍記者となり、
日本に来たりと、一所に落ち着かない特異な作家だが、

その若い頃は、これまた凄まじい。



2011年4月13日水曜日

「一号線を北上せよ」沢木耕太郎


この作者の「深夜特急」に魅了された者からすれば、
こちらの本は旅の記録のようだ。

もちろん、それはそれでいいし、
北から南に長いベトナムの骨のような街道を北上する旅、
それはそれで面白い。

それでも…「深夜特急」とは、
なにが違うのか…と思う。

あれは「記録」をはみ出しているところだ。

読んでいて、今そこに旅が生まれるのを読者は立ち会い、目撃する。
ノンフィクションなのに、フィクションの架空の旅がある。

しかし旅の記憶が不思議なのは、入り交じってまた新たに立ち上がるところだ。

付録と呼ぶべきか…、

このベトナム街道の旅と
最近亡くなった高峰秀子と沢木耕太郎との対談が載っている。

2011年4月5日火曜日

ル・グウィン「ヴォイス」



ファンタジーものはよくわからない。
いや、というよりも苦手。

それを忘れかけた時々に、手にするたび
やはり良くわからないという見解が裏付けられてしまう。

そのなかにあって、ル・グウィンの「ゲド戦記」は面白い。
特に「こわれた腕輪」はよくできている。

比べてはならぬが、どうしても比べる。

さて、これは「西のはての年代記」の二作目。

ふたつめから読み始めたのは、侵略を受けたアンサルの隠し図書館から始まること。

その侵略者、オルド人が本を魔物と恐れている。

「華氏451」とか「炎のアンダルシア」…、最近だと
「アレキサンドリア」など、焚書と本を守ろうとする話があるけど、
どういう訳か魅かれてしまう。

焼く方か、隠す方か、ちょっとわからないのだけども…。

2011年4月1日金曜日

「王のパティシェ」ストレールが語るお菓子の歴史



パリにある1737年創業のお菓子の店、ストレール。
その創業者にニコラ・ストレールが82歳の晩年に記した日記だ。

14歳のとき王位を追われたポーランドの大公の厨房で働くこととなったが、
このスタニスワム大公が実に大変なる食道楽。

しかも自らの思いつきを実行させる。

モンテーニュ曰く、食道楽など七つ大罪のひとつ
と教えられていた時代、そんな大公に気に入られたおかげで
それは罪ではないと教えられた記す。

この日記が、ちょっとパトリス・ルコントが撮っても良さそうな映画みたいだ。
そう感覚的な、アメリカ的じゃないフランス映画だ。

レシピの日誌なのにやはりフランス人がやるとこうなるのか、とも感心。

2011年3月26日土曜日

「映画は語る」


淀川長治。
この方は、映画の妖精だと思う。

いなくなった後で…

それがいつからいなくなったのかという期間もあるけど…
いなくなってから、よくわかるということがある。

ひさしぶりに淀川長治の「声」が聞きたくなった。

誕生から百年以上たった映画は、今現在のDVDを中心として見る映画とも
70年代や80年代の場所に縛られてみる映画とも違っている。

もっと神秘的で、より娯楽性が高かった。

映画の黎明期から黄金期を体感してきた淀川長治は、
今の映画を、生きていたらどう思うだろう。


ちょっとそんなことを思いながら読んだ。

2011年3月1日火曜日

黒澤明が愛した山本周五郎

近頃、本が読めなくなった。
どうも読みたくなる意欲が乏しい。
そういう困った時には、山本周五郎。

他の人に聞くかどうかわからないが私には薬。

「柳橋物語」を読んだが、やはり効いた。

この面白さ、
読者ともに庄吉も幸太も、主人公のおせんが本当にどちらが好きなのかわからない点にある。

ただ先に聞かれた相手に、答えたがゆえに約束として存在し、
それが実在として固まってくる心情が見事なのだ。

先回りされた幸太がそれでも思いを捨てきれず、大火事の際に助けようと身を投げ出す。
杉田屋という大名の屋敷にも出入りする大工と、母との関係もまわりの主観的な見解によって知らされ、
なにかしら養子入りした幸太への影響の与え方もうまい。

考えてみれば、母も他界しているし、辛い思いをした事も過去に過ぎないが、
祖父が語る杉田屋の養子話があるのとないのとでは深みが異なろう。

その語りすぎない描き方が上手なのだ。
作者のいずれにも肩を持たない、公平な表現がなければ物語と失敗するかもしれぬ内容だ。

もう一つの
育ちの違う家具職人の弟子と親方の娘まきとの話、「むかしも今も」もうまい。

さて
黒澤明は、この山本周五郎の小説を企画含めて、5本も取り組んでいる。

芥川龍之介の「羅生門」、ドストエフスキー「白痴」、ゴーリキー「どん底」、
シェークスピアでも、「蜘蛛巣城」、「乱」の2本。

原作の映画化「は、「日々平安」の、「椿三十郎」、
「赤ひげ」、「どですかでん」。

残された企画が「雨あがる」と「海は見ていた」となる。

山本も黒澤も、その作品性はエンターティメントにありながら、
純文学以上に磨き上げられた芸術的な技にある。

そういう意味ではこの二人の巨匠は本当に稀な存在だと思う。


【関連記事→「大系黒澤明」http://s-tusin.blog.so-net.ne.jp/2010-07-10】

2011年1月22日土曜日

「北野武による「たけし」」ミシェル・テマン

まずこのインタビューに興味があった。

フランス人の著者との間を
ペナンの語り部の系譜にあるゾマホン氏が通訳で繋いでいる。

その様子はなかなか想像しがたい
いつもの北野武の一人称的語りで
著者の姿が容易に感じられない。

だが相手がいるだけのことはあり、通常ならおそらく語らない
ところにも及んでいるように思う。

スタンリー・キューブリックが好きだと言うのは、とても意外な気がした。


あわせて「HANA-BE」を見たが、
シーンとシーンとのカットがいつもながら強い。
不思議な緊張感がある。

黒澤明が「夢」のスケッチを北野武に送ったそうだが、
天才は天才を知るということか。

2011年1月7日金曜日

「ねむり」村上春樹


電子書籍が話題だけども、本には書籍としての物質性がある。
以前フィレンツェのサンマルコ修道院にある図書館で「本」を見たら
動物の毛がついた表紙で、鉦の鋲が打ち込まれ、鎖までついていた。

しかもかなり重そうだ。

それに比べたら今の本はかなりカジュアル。

それとどうも日本では通勤読書が大きな優位性をしめるためか
書籍としての本にあまり個性を求めぬ傾向がある。

だからこそ、電子書籍なんだろう。

しかし、そこばかりではつまらない。

この小説は文庫で読んだ短編だけど、
こんなふうに何枚もイラストが入った書籍にすると、
ずいぶんと違った印象になる。

そういうポイントとコンセプトで
もう少し本という世界を変えてもらえたらうれしい。

内容の方もこの不眠症の女が前より輪郭がはっきりしている。
その分のせいか、終わりの
閉じ込められた車のインパクトが変わったように感じた。

どちらが好みかはそれぞれだろう。

今度は、手直し前の「眠り」の方を再読してみようと思う。