2009年12月28日月曜日

村上春樹はシュールレアリズム。




編集に寄って作品のイメージは大きく変わる。
ニューヨーク版の短編編集
「めくらやなぎと眠る女」で新たに読むとよくわかるかもしれない。

村上春樹は、シュールレアリズムなジャンルを確立した作家だ。
それにこの装丁、その感じがよくわかる。
新しいパッケージで読むと、また違った印象が感じられる。

2009年12月19日土曜日

「愛人ラマン」



「愛人ラマン」は、映画先だったために
読む機会がなかなかなかった。

これはすごい小説。
デュラスは映画のような小説を書いた。

そういう意味では先きに原作を読んでいたら映画を見る必要はなかった。

誰かに似ている。この作者の少女時代の写真。
そうか…

トルーマン・カポーティ。

少年時代天使のような子が、晩年は悪魔みたいな容貌。
それはマルグリット・デュラスとよく似ている。

似た者同士だ。

2009年12月12日土曜日

「モンテ・フェルモの丘の家」

イタリアの女流作家ナタリア・ギンズブルグの小説。
それを訳したのは、須賀敦子。

翻訳的障害などまるで感じないほどの
文体は、どっちの小説なのかと思えるほど。

ここに描かれるのは、すべて手紙形式から伺える人々の
人間関係やそこに生まれる錯覚的な愛や出産、
引っ越しや友人のことなどが見事に心理的に描写されている。

小説よりも、印象は映画に近い。

それも「湖のほとりで」とか、「息子の部屋」のような
筋をのぞいた人物描写の撮影だ。
映像と違うのは、
手紙の描き手との距離や温度が伺えることかもしれない。

最初のとっかかりが難しいかもしれない。
なぜなら、いきなり
手紙なのだ。
手かがりに困難するが、まずかまわず読んで行けばいい。
すぐにはっきりと人物像や部屋が浮かび上がってくる。

マンゾーニを書いたナタリアの作品も
もう一度挑戦してみようかと思う。

2009年12月6日日曜日

「ガルシア・マルケスひとつの話」


「ガルシア・マルケスひとつ話」。
この本は、前の「百年の孤独」を同時並行的に読んでみました。

「百年の孤独」と作者の熱烈なファンが作ったマニア本。
村上春樹の謎解き本みたいなものではなく、
ファンであるところがいいですね。理屈がないですからね。

さて、これで黒沢明にガルシア・マルケスの話が
時々でてくる理由がよくわかりました。
どうやら
このノーベル賞作家が黒沢映画大好き。
自作の「族長の秋」をなんとか映像化して欲しいと
対談したそうです。

企画は黒沢が他界してしまい、消えてしまったけどマルケスの息子
ロドリゴ・ガルシアが映画監督になりました。

「彼女をみればわかること」はなかなかしゃれた作品でした。

2009年12月1日火曜日

「百年の孤独」



マルケスの影響を受けたイザベル・アジェンデの「精霊たちの家」
のあとに本家を読んでみました。

20ページまではすごく面白い物語。
その後430ページは
読む必要があるのかと、も思いました。
もちろんだからダメとかそういうのではありません。

読む本もあれば、置いておく本もあります。
この「百年の孤独」は後者に近い。

さてこの改訂版のレメディオス・バロの絵画の表紙は
この読み物の書物として素晴らしい意匠になってます。

 ぜひとも所蔵すべき物語ではないかと思います。

2009年11月30日月曜日

「狼に育てられた子」



むかしこうした話がよくありましたね。
少年誌のイラストとあらすじくらいの話で
ちゃんと読んだことがないので、
一応ページを開いてみました。

インドであった話の記録ですね。

2009年11月3日火曜日

「トゥルビンとメククリンの不思議な冒険」




作者のイラストと二人のキャラは面白い、だけどね。

2009年10月25日日曜日

ガルシア・マルケスの娘、「精霊たちの家」


表題には書いたがガルシア・マルケスの「百年の孤独」、
飲んだことあっても…読んだことない。
                あれは、宮崎の焼酎か…。

この本を手に取るきっかけは、丸谷才一の「女たちの小説」。
ここで紹介が明快でもう読みたくなった。
そこに南米文学の第一人者マルケスとこの本の作者、イザベル・アジェンデの
ことが記されている。
なるほど、本家を読んではいないが,「型」
として使っている気もする。同じような一族の家族の年代記。
これだけで、まねたと言われたら、確かに腹を立てるかもしれない。
これは丸谷才一が指摘するように、女系の家族の脈々と流れ、
であり、その血の濃さの魅力だ。

ここで描かれる不可思議なマジック、それも南米的気配だろう。
この本、
池沢夏樹の個人編集した世界文学にある一冊。
(今何をどう選んで世界文学を選ぶのか?
という方もかなり好奇心がわきますけど…)
ここにある「精霊たちの家」の紹介文も丸谷才一とは違って興味深い。

これを原作にビレ・アウグストが映画化したとか。
メリル・ストリープ、ジェレミー・アイアンズ、ウィノラ・ライダー、
アントニオ・バンデラス…、そうかこれも知らなかった。

機会があったら見てみたい。

2009年10月18日日曜日

「陰日向に咲く」



タレント本?

恐る恐る開けば、なかなか読ませるたいした才能だ。
しっかりと書き下ろしの小説。

お笑い芸人と簡単に思っていたが,いつの間にやら
TV画面のバラエティは
…リーマンショックもあって
予算なしのせいもあって、
お笑い系のモノどもばかり。


気がつけばイケメンかお笑いだけ。

そのカテゴリー。
量となれば質がでるのは常のことか。
お笑いが隠れ蓑。
この著者もその一人か。
対談で驚くべき話術だと感心したが、これを読んで納得した。

2009年10月15日木曜日

川上弘美に唸る-「古道具中野商店」



数年前に友達から貰った「センセイの鞄」。
市川準の短編映画のようだと思った。

今回、何冊か読み始めたが,
この独特な世界観は見事だ。
こういう雰囲気が作れないからストーリー主義に走るんだろうな
と思った。

2009年10月5日月曜日

「葦切り」



先きに亡くなった庄野潤三
長谷川潔の版画が文章にあっています。

2009年9月27日日曜日

「ペリカンの冒険」



フィンランドの作家の児童書。
ペリカンが人間社会に混じり込むんだけど,
服を着ていると気がつかれない。

それに気付いた少年との交流の話。
読み終わったすぐに、川上弘美の短編で、
こちらは隣に越してきたクマと、ピクニック行く話。

どっちも面白かった。

2009年9月7日月曜日

「船の歴史事典」



図書館で見つけた本ですけど、
このイラストがなかなか雰囲気があって好きですね。

2009年9月5日土曜日

「神山健二の映画は撮ったことがない」



映画評論と言えば、淀川長治。
故人となって久しいが、この人のすごいところは
感心する映画にあったときのその語り部のような魅力。

この語りで、何本も観ないような傾向の作品を知った。

そして評論家的よりも「観客」としての代表的な見た方だと思う。

神山健二についてはTVアニメの「精霊の守り人」を見た事しかない。
なかなかいい演出をする。

従って彼が見た映画も、監督をする視点でどうなのかと
描かれている。
それできっといい。
映画は実際の泥棒や
諸夫がその筋の作品を評論したら
結構面白いと思うがなかなかない。

通常の映画の評論家と違い、
こんな風にはみない、がその独自の視点が面白い。

もちろん、一般的か映画評論として優れているかは、別問題。

2009年8月24日月曜日

「メイキング・オブ・ブレード・ランナー」



この映画で一番好きなシーンは、
車に乗っているのに、ストリート・ギャングに
タイヤとかの部品を盗られるシーンだ。
そのギャングが子供とか小人、まるでボッシュの
地獄図未来版。

この場面一つで、
一体この映画の世界がどんな社会かがよくわかる。



リドリー・スコットが編集の権利が無く、
彼の意に添わず、
遅れに遅れ、制作費のふくれあがった名作は勝手に公開された。

確かに何年かの後の「完全版」とか「ディレクターズ・カット版」
リバイバルもあり、リドリー版も公開された。

そちらは見てはいない。必要がない。
なぜなら、その封切りの荒っぽさが好きだからだ。
確かに監督の意に添わなかったかもしれないが、
観客のイメージはおおいに喚起した。

わからなさも含めていいのだ。

映画に関して、後の、時間をおいた編集は、
プロデューサーに途中で作品を取り上げられたりと
なんとしても自分の手でもう一度と思うのはわかるが、
これで良かった作品は知らない。
「ニューシネマ・パラダイス」も、
蛇足以上で、なにかしら後味が良くなかった。


公開された段階で、客のものなのだ。
あの「地獄の黙示録」もカンヌ公開のタイトルの入ってない
のが一番いい。

たぶん、タイトルもキャストも何も入っていない映画は
あれがはじめてだ。
未だにその一本。

それが映画の体験なんだと思う。

2009年8月23日日曜日

「ゲド戦記外伝」




ル・グウィンのゲドシリーズは魅力的。
外伝にあたり冒頭、作者がふさしぶりに
この物語世界を訪れてみたら、様変わりしていた
と記されている。

そして
ここにいくつかの短編的な断片がまとめられている。
物語にはその空間独特の時間が流れている。

この体験的な感覚がいい。

その世界が描き過ぎずに表現されている
やはりこの作家ならではだろうか。

2009年8月19日水曜日

「1Q84」。


「1Q84」。二回目。とても面白く読んだ。

ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」で始まる
この小説はその曲のせいもあって映画的だ。

これは印象のせいかもしれないが、「説明的」な気がしてならない。
しかし多分説明はしていないはずだ。
そう言うことをもっとも嫌う作家だからだ。

もう少し精確いえば、「海辺のカフカ」に比べて説明的な印象が強い、
というべきかもしれない。
印象という言い方は曖昧だが、表現のきめがそう持たせるのかもしれない。
なるべくわかりやすくしようと書いているため、重くなるからだろう。

もちろんある分では親切さを感じる。
新しい読者にはそれでいい。
特にイスラエルでの受賞もあった
新作期待にはじめて手に取った読者には嬉しいとても配慮だろう。
さて
その「印象」のためか、
「カフカ」よりもイメージの飛躍や振幅は限られるように思う。
青豆の胸ように左右非対称の間を交錯する。

これまでの古い読者からすれば、イメージの重なり、
ジャンプが欲しいところと感じたのは私だけじゃないと思う。

2009年7月9日木曜日

オールダス・ハクスレー「島」



「島」が面白くなかったのは、何でだろう。

翻訳の力量もあるが、どうもそうではない。
一種の文明批評としてパラというこの小説の舞台空間、島が描かれている。
それだけつまり設定で終わっている、

それでは足りないし、人物も魅力的ではない。
というより
まだ設定中だけで、物語の機能をしてない。

作者ハクスレーは物語には関心が足りなかったようだ。

別にこういうことはよくあるが…
中途まで読んだからとか、相性の悪い文学との距離の取り方、やめ方が難しい。
何かすっきりしない気分でしょう。こういうの。
しかし
無理に読み進んだところで、だめなんだから、
やっぱり辞めるべきなのが正しい。

突然、そんならと図書館で
プーシキン全集を借りる。
しかし、こういう作家を手に取っただが、どうやって読んだらいいのかのガイドもない。
そういうのさ、時々あればいいのにと思う。

2009年6月28日日曜日

「金鉱町のルーシー」カレン・クシュマン



カリフォルニアに行けば、金がごろごろ採れる
その黄金時代幕開けを背景にした児童文学。

やはりどうしても思い出してしまうのが「大草原の小さな家」。

後家となった無鉄砲な母親にいやいや同行する少女が
ここを故郷と思うまでを描いてます。

それにしても、このゴールドラッシュは、
金だったり、ハリウッド映画だったり、
パソコン開発だったり、

全部「虚」的だというのが興味深い。
太平洋側はそういうイメージの土地なんでしょうね。

2009年6月14日日曜日

森絵都の「ラン」


数年前よりデビュー作から読んでいる作家,森絵都。
日本の児童文学にあって
リアリティの重さを取り込んだ
なかなかすごい存在だと感心した。

何しろ裕福な消費大国の、
児童文学なのである。

大抵なら何を書いても嘘くさくなる
はず、まずここがこの作家のすごさ。

いつのまにか直木賞受賞し、その第一作。
皮肉なことに、大衆小説での分野では
森の良さが今ひとつ鈍い、そう思うのは私だけか。

その辺りがすぐに読まずにいたことと関係はあるが、
それは個人的なことだ。

460ページほどだが、丸二日。
ディケンズなら、50ページ分くらいか。
誤解されると困るが、内容がないわけではない。

確か、作者もこれを描く為に40キロ走ったとか、
走らなかったとか
いう執筆に関する記事を目にしたが、
(…ほとんど、正確ではないのであしからず)
そういう体験的なやり方の方に興味が行った。

やりたい体験より、やりたくない体験の方が
小説としてはいい気がするが…。

2009年6月7日日曜日

「荒涼館」チャールズ・ディケンズ


「荒涼館」を読み終わる。
一月半くらいでこの長編小説を読んだ。

世界文学全集の装丁の、
机でないと読めない重さ。
いや、
それよりも、三段式の文字組に慣れるまでが大変だった。
こんなに読みにくいのもない。

だけではない。
たぶん、ディケンズの物語世界の大きさのせいだ。
それは私などがストーリー中心として読む
習慣性の違いが大きい。

こういう長編の読書体験はとても格別な感じがある。
その格別な長さこそが爽快さを産む。大抵の現代小説のようにストーリーが中心ではない。

むしろ細部の、空間や雰囲気、または社会的事情などのいわば横道の方、
そうした枠の大きさがワイドかつ鮮明なハイビジョン的。

ここがまずもって得難いところだ。
それがストーリーの流れを鈍くしているが、

そこには今の時代にはない時間感覚とテンポの魅力がある。
宮崎漫画の描写にも通じる読みにくさがかえっていいのだ。


そしてそういう濃度でしか、体験できないのが、
ドストエフスキーとかトーマス。マン、
ディケンズとかの文豪の長編だろう。






2009年6月4日木曜日

ペイトン「バラの構図」



引っ越した田舎の家、
そこの暖炉の煙突から出てきた絵。

これをきっかけに
かってその家に住んでいた少年と
現在の将来に悩む青年。

出会うこと無い二人が交錯する物語。
小説の構成は確かによくあるんですけど、
要はその表現がうまいのです。

そして挫折を知らず無垢でいることが
人を傷つけ、
やがて自分の身分をもっとも嫌な状況で知らされ
その無垢な気持ちを捨て去ろうとする。

よく描けてます。

2009年6月3日水曜日

エンデ「遺産相続ゲーム」



これは芝居の戯曲として
ミヒャエル・エンデが描いてます。

巻末の劇を制作する上での
演出上の注意書きを読むと、
一本くらい映画を作っても
よかったんじゃないかなと思います。

たぶんもう一つ違った世代だったら
そうした可能性があったんじゃないかとも思いますけど。

2009年6月1日月曜日

ハウフの童話「魔法物語」





「ハウフ童話集」(訳=高橋健二)と
この「「魔法物語」(訳=種村季弘)を読んでみた。
短編の集まりで、うちの二つが同じ話。


もちろん装丁も違うし、
片方の、児童向けは
ヤーヌス・グラビアンスキーの絵が入っている。

いつも、外国の、翻訳本というのは、
何か違うモノを読まされる気がしてならぬと疑うが、
やはり本当に雰囲気が違うし、読後感が違う。


また訳者によって大変好きな作家なのに
読めないという辛い体験もある。

このもどかしさは実に不思議だ。
全く違う環境で観る映画にも似ている。

作者のヴィルヘルム・ハウフは
1802年に生まれ、
25才にならないうちに死んだそうだ。

作者ハウフも、昔からの物語を自分なりの手法で
蘇られせているんだけど、
落語と同じではないだろうか、

三遊亭円生版もあれば、
古今亭志ん生版もあるのに似ている。

そういうところが面白いと感じている。

2009年5月14日木曜日

宮崎駿のガイドする「ブラッカムの爆撃機」


私はドイツのある児童文学者が好きだけど、
この動画映画の監督は、
かって敵対したイギリスの児童文学者ウェストールに憧れている。

もうひとりフランスの、
サンテグジュペリ。
こちらは私と共通している児童文学。

巨匠と並べておこがましいが、そういうのも愛読者の特権でもある。
しかし
宮崎駿の愛読者ぶりはすごい。

これには感心。
しかしどうせ好きならこれくらいやるべきだと思う。

この本を新たに出版するために、気合いの入った絵が添えられ、
しかも作家の故郷、英国のタインマスまで出かけている。

なんと言う熱の入れよう。
それはこの小説以上に感動的だ。

サンテグジュペリの「夜間飛行」は飛行機の上からの視点、
おそらくそれはこれまでに人間が持たなかったものの見方だ。
その表現が見事で同乗している気分だった。

それまでロバート・ウェストールは読んだことがない…

なるほど飛行機の空間がいい。
しかし、これは添えてくれたすばらしいイラストによって
ひきだされているように思える。

それでもこれは宮崎の添えた漫画と合わせて読むと面白い。

2009年4月30日木曜日

近所のよしみ中勘助の「銀の匙」をようやく読む



「銀の匙」の作者、中勘助は、上京していとき
今住んでいるすぐ近くに住んでいた。
夏目漱石もこの小説に感心している。
だから読まない理由はないのだが、
いつもだが独特の世界観のあるものは、
読み始めが難しい。

この本、5年くらい置いてあった。

うまくはいれれば一気に読み勧めるが、
そうでないとしばらく中断する。
今回はこの小説はうまく入れた。

進むうちに、この幼少の感覚は谷内六郎のようだ。
同じような深みから来ている空気が感じられる。

おばさんの背中から見た幼少世界は
ついさっき見たような気分ではないか。

2009年4月20日月曜日

古典とモダンの間-モランディ

毎年10年ほどボローニャへ行く機会があったので、
たぶん人よりモランディを見ている。

毎年見ていたが、このほとんど静物しか描かない
絵が好きになったのはその一番最後だった。

やはりどこかずっと気になっていたのだろう。
フェリーニは映画にまで彼の絵を出して賞賛している。

ボローニャでほぼその生涯を終えたこともあり、
市庁舎には、一般のコレクション絵画コーナーから
ついに
モランディだけの美術館もできた。

やはり街の中にあるアトリエから
この画家が使っていたも静物のモチーフも移設され
観ることが出来る。



しかしこんな程度で収まってしまうのがすごい。
人間のモデルもほとんど使わないし、瓶とか陶器とかを
繰り返し繰り返し絵に描いた。

この足なしのテーブルはモランディ自身が作ったのだとか。

奇妙な祭壇であり、彼にとっては宇宙だったんだろう。





それにしてもベン・ニコルソンが好きだったのに
モランディは、ずっと退屈な静物画家だと、
どうして思い込んでいたんだろう。

ボローニャで観ると、聖人の宗教画にもみえるし、
他とは変わった抽象画に感じられ、
過去と未来の架け橋にモランディがいる。

ほんとうに、静物画じゃない。

生きていたり、動いていたり…


最近手に取った

「ジョルジョ・モランディ 静謐の画家と激動の時代」
ジャネット・アブラモヴィッチ著。バベルプレス刊。

によれば、

ボローニャ近郊のグリツィアーナに別荘があるが、
ナチス進行で、押し入られたらしいが彼の絵は欲しがられなかったと
モランディが語っていたそうだ。


作者はかってモランディの生徒だという。

2009年4月18日土曜日

モーパッサン短編集

懐かしさに魅かれて文庫本を手に取る。

「紐」は大昔…たしか教科書にあったような記憶…。

「ピエロ」が秀逸。
まるで短編フィルムのよう。

田舎風の未亡人の顔までありありと見えてくる。
話も面白い。

このやや見栄っ張りでケチな未亡人の家に
盗人が入り、女中が不用心だから、
犬を飼った方がいい、と助言。

未亡人が気になるのは、泥棒よけの犬の食費。
パン屋から、かねてより手放したがっている
子犬を貰い受けるが、これが飯の時しか吠えない。

吠えるよりも甲高くきゃんきゃん鳴く。

そのうち情がわくが、税金がかかると知るに及んで、
とんでもないと、大慌て。

近くの坑道の穴に捨てるが、その夜から後悔に苛まれる。
穴に声をかければ、可愛い犬の声。

穴掘り人夫に頼むが、費用を聞くと腹を立てる。
ご飯を与えればいいと女中。

パンにバターをつけて穴に放り込むが、もう一匹明らかに
大きな犬が放り込まれている。

因果を含め、オマエのパンダと投げるが、声の様子では
ピエロのパンはもう一一匹に喰われ、情けない声で吠える。

悲しいやら情けないやらの未亡人だが、
他所の犬を養うつもりまでない怒りをぶちまけ、
なき女中と帰るという話だ。


キ・ド・モーパッサンは、この前に呼んだ「ボヴァリー夫人」のフローベール
の親戚とかで、師事したとある。

もっぱら、お金がいる為に、新聞に短編を載せたという。

2009年4月12日日曜日

映画は大学で講義する時代-「黒澤明を観る」


いつのまにか時代というものは変わるものだけど、
あらためて
意識したのが、この「黒澤明を観る」。

そうですよ、最近は本を読む学生も減っているが、
映画も似たようなもの。

流行で観るから、なかなかいい作品には出会わない。
しかも
生まれて百年ちょっとの映画は、
新しいものを見る、
ものだと考える若者も多い。

「古典」の概念はまだまだない。

逆に、黒沢映画を賞賛する保守は、
能書き好き。

これじゃ溝は埋まらない。
確かに黒沢映画は、講義にも足りる。

批評よりも、若者達の感想に、あたらしいものの見方もうかがる。

映像は撮るものではなく、創るものだが、

今ではCGのことしか言わないと思うものばかり。

だから「宇宙戦争」はつまらない。
あれが「未知との遭遇」を創った同じ監督の作品だろうか?

印象深い、映像と迫力の作り方を
現代の監督はすっかり忘れてしまっている。

漫画も大学に入ったのなら、黒沢も必修になってしかるべきだ。

2009年4月4日土曜日

「エル・ブリの一日」



この大判の分厚い本を紹介するのは難しい。
まるで一本の上質な映画を見るようだ。

これはスペイン、バルセロナからさらに
先きにある風光明媚な場所にあるレストランの
一日をドキュメントした本。

風光明媚とは逆に、
一元の旅行客には容易に
行けぬ場所。

しかもこの店「エル・ブリ」は約半年ほど
一日一回転しかしない。
スタッフは来客人数よりも多い。

つまり、通常の店舗ではない。
なんどか世界のレストランのチャンピオンになった店。
メニューがなく創作料理のみ。

それが実に刺激的なのだ。
わたしは、世界の中で日本料理は,特異な位置を占めていると思っている。
理由は、あれほどつまり、西洋料理や中華のように油を使わない
料理はないと思うからだ。

かならずしも、料理の仕方が火力ではない。
こうしたところにも、豊かな幅広い食卓を構成する
原因がある。

このエル・ブリは、新たな料理法をつくることの為に
店とい一応の形状を構成しているが、その
料理の仕方の活路を全く異なった方面から
握っている。

しかし料理の本ではない。
好奇心の本なのだと思う。

創造性とは模倣しないこと。

このエル・ブリのボス、フェラン・アドリアは
それによって料理の師や伝統と決別し、創作世界にのめり込んで行く。

しかし大抵の店が、創作の看板を掲げ、数年の賞味期限であるなか、
彼は学校とは違い、多くの学び成長しようとする者たちと
このエル・ブリを運営する。

店でも学校でもない、最先端の場所は刺激的だ。

2009年3月16日月曜日

棺桶のような装丁がいい








山本夏彦著「死ぬの大好き」。
癖のない嫌われないようなカバーをとると、

なんとこの装丁。

遺影とか、棺桶のような…
すてきな装丁にまず感心。


小説が「旅行」、エッセイは「近所の散歩」。
楽しみの機能が違う。

この方のエッセイは芸ですが、
ご隠居の話を聞きながら、辛夷の花が開く坂道を歩く感じですね。

2009年2月18日水曜日

施主と建築家の幸福な出会い



藤森照信の手作り建築と
その施主になった赤瀬川原平。

路上観察学会からの親しい仲間が、
家を造るという…それもまた遊びプロジェクトのような
…施主も施主だが建築家も建築家。

溺愛の建て売りやマンション買いの消費大国
日本にあって、一種の神話のような物語。

本が一冊描ける家づくりを施主が目指すと
けっこう面白い家が出現すると思うしだい。


いや、こういうことではない。赤瀬川+藤森のこうした有り様は、
安藤忠雄を有名にした「住吉の長屋」と対極にある。
ここに彼らの価値がある。

安藤は、施主の希望よりも作品を優先させたと思うが、
ニラハウスは、施主と建築家が奇妙な関係にあるが、
基本は仲間みんなでどうやって楽しんで家作りをするかにある。

その為に施主が使われる。

ある意味では、藤森の実験材料の為に物件があるにも関わらず、
この根本は、子供が基地を造る遊びに通じるがある。
安藤にはそれがない。


このことは今の建築ジャーナル的な視点から
もう一つ新しい建築の考え方が建物とともに
出現したのだと思う。

2009年2月11日水曜日

「ラス・メニーナス」の謎、「ベラスケスの十字の謎」



落日のスペインの宮廷画家ベラスケスの傑作、
「宮廷の侍女たち」とか「女官たち」との邦題のついた絵画。

絵の中心、マルガリータ王女の精錬な美しさに
オーギュスト・ルノワールは心を奪われたという。

なるほど確かに後のノルワールの絵には
このような少女の絵が何度も登場する。
おそらくこの人物画だけでも見事だ。
おなじベラスケスの肖像画にはない
今の時間を閉じ込めた勢いが感じられる。

しかし

宮廷画家は何の絵を描いているのか?

これはいつつみても不思議な絵だ。
常々、二次元の世界には、
三次元の世界ではない本質的な魅力があるはずだ。
つまり虚構を含めた絵作りこそ面白い。

二つの異なった空間を構成したり、
過去現在未来の時間を同一画面に表現したり
というが
絵画の本質に迫る面白さだと信じる。

それこそが絵画の世界だろう。
「ラス・メニーナス」にはそれがある。

この絵は見る以上に、絵の自分の視線に見られる絵だ。

この絵に登場する人物をのちに調べた画家によれば、
侏儒マリバルボラの背後、
影のような人物。

ベラスケスの胸の紅い十字。
絵の完成時には、この紋章の示すサンティアゴ騎士団にはまだなっていなかったという。

この小説、「ベラスケスの十字の謎」は、
その謎から啓示を受けた話だ。
よめば、もう一度この絵を見たくなるに違いない。

2009年2月8日日曜日

「レニとよばれたわたし」





この何とも言えない独特な絵と物語があっています。

2009年2月2日月曜日

キャロルか…カロルか…ディケンズの代表作



わたしが書くもおかしいですけど、
ディケンズのおもしろは、
TVや映画がなかった時代のドラマの魅力ではないかと思います。
この良く知られた「クリスマス・カロル」。

読んでいくと、映画的なシーンを彷彿させますね。

2009年1月30日金曜日

たまにはアンソロジー



15人の、古今の日本作家の短編集を手に取る。
こういうのはとにかく読みやすい。

しかも
安西水丸画伯のカラーのイラストが差し込まれている。
ちょっとやり過ぎくらいに感じるのは、
最近の本離れに少しでも引き寄せようとの努力か…

短編アンソロジーは、
一つ一つ小説の共通する感覚がポイントだろうと察する。

ベクトルが違った編集だと、いい作品でも
不協和音。

川端康成の娘から片腕を一晩借りる話、
三島由紀夫の別れようと言いたいが為につきあう若い恋人のその顛末など


伊丹十三と深沢七郎…、ふだんなら
手に取らない作家が新鮮で面白かった。

2009年1月24日土曜日

香月泰男「画家のことば」



山口県の三隅町へ行こうと思ったことがある。
この画家の絵が好きかどうか別にして
この人のアトリエを見たかったからだ。

まるで、
子供が集めたおもちゃ箱のようなアトリエだ、と思った。

やはりシベリヤに抑留されたこととどこかで関係しているのかもしれない。

2009年1月19日月曜日

「オリバー・トゥイスト」


言わずと知れた英国大文豪、チャールズ・ディケンズの小説。
本よりも先きに、映画のイメージがかえって読もうとする意欲を奪った。

映画は、
確か「小さな恋のメロディ」でスターになった
マーク・レスターがオリバーを演じていた。
つい最近もロマン・ポランスキーが映像化した。

しかしこの小説のおもしろが表現できるのか?

明からかに作者ディケンズの、
当時のロンドンを達観した冷酷な視線があって、
オリバーの物語の進行を見守る、

その「距離」と「関係」の仕方がこの作品の魅力だ。

かなり大胆な演出をしないと、ディケンズの皮肉な面白さは出ない。

その後この映画化の評判に関する話を聞かないところ
やはり原作本の販促にしかならなかったのかもしれない。

2009年1月16日金曜日

ビネッテの黒い線



ビネッテ・シュレーダーはドイツの魔女の肌合いを持つ雰囲気の絵を描くアーティスト。
それがエンデと組んでの本では魅力的なコラボをしている。

ミヒャエル・エンデも「モモ」では素晴らしい挿絵を描いてる。
察するに
自分で苦労して紡ぎ出した物語の挿絵を
他人に任せたくはなかったのだろう。

この本を見ると、あるいはビネッテにまかせもよかったかもしれない、

また、エンデ板とは違った「モモ」になったのでは…
と思いめぐらす楽しみがある。

2009年1月15日木曜日

アッシジに行きたくなる「聖人と悪魔」



イギリス人の作家メアリ・ホフマンによる
アッシジを舞台とした中世修道院世界のストーリー。
展開以上にこの作品を支えているのは、
修道院が教会の写本やフレスコ画制作の為に
顔料師を養成していたことだ。

これまで…少なくも私にとってはという意味だが、
この教会を彩る壁画用の色を様々な石から取り出す
技能を持つ顔料師の登場は新鮮だ。

それともう一つ。
架空の修道院で起こる連続殺人事件と平行し
サンフランチェスコ教会の聖堂、下堂の壁画、
これを担当したシエナ派のシモーネ・マルティーニと
ピエトロ・ロレンツェッティの実在した画家の登場である。

ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」がそうだったように
映画にしたらいいなと思うと感じるのは
私だけではないと思う。

2009年1月13日火曜日

古典はハイビジョン映像-「ボヴァリー夫人」



旅行する際の本として持参したのは、
この小説が適当かどうかよりも、たまたま手に取ったリョサ・バルガスの
若き小説家に向けての勧める文学の中に、
フローベールの「ボヴァリー夫人」があったという縁だ。

その時まで南アフリカへの旅行の際には
島崎の「破戒」を同行させようと考えていた。

古典のおもしろを知りながらも、
容易に読めないジレンマもある。

それだけの集中力を要するからだ。

しかし時々現代小説やそれに類するジャーナルを読んでいる自分が
「本の消費者」ではないかと感じる場面もある。

このフローベールの小説。
そのストーリーは、われわれの人生がそうであるようにありふれている。

しかし読んでいくうちの物語として自分の中で派生する印象は
鮮明な一つの自性体験でもある。
それが現代小説と如何に異なるのか…
その鮮明さ、リアリティという解像度がちがう。

そしてその強さからしか学べないものが確実にある。

2009年1月12日月曜日

アンリ・カルティエ・ブレッソン「こころの眼」


2年ほど前、ブレッソンの記録映画を見た。
映画も興味深かったが

それ以上に、
その上映した渋谷の坂に面したミニシアターが印象的だった。

まるで四角い箱。
それ自体の空間がカメラの箱、カメラオブスキュラーのようだった。

上映される映画以上の強烈な印象だったのは、
そちらの内容をほとんど覚えていないからだ。

この伝説的なカメラマンが
暗室仕事をしない、撮影だけだということを知った。

しかし写真を見れば
やはりそうだろうとも思う。

どうしこんな写真が撮れたんだろう…
と思うものばかりだからだ。