2010年12月21日火曜日

村上龍「歌うクジラ」







この作家もデビューからそれほど離れずに読んでいる。


本の見出しにある、グレゴリオ聖歌を歌うザトウクジラの発見と、少年の冒険の旅、
という言葉で、勝手に
村上龍版の「海辺カフカ」とも想像。

読み始めると、冒頭は山上たつひこの「光る風」、
それに続く展開に、大友克洋の「アキラ」が重なってきました。

性と生を管理する管理社会の未来を描いた反ユートピアの世界。
そこをめぐる少年の話は、
どうも「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を
思い出してしまいました。


個人的には、
「コインロッカー・ベイビーズ」がやはり毒があっていいです。

2010年12月3日金曜日

ヘルマン・ヘッセ「デミアン」

読むのははじめての大作家だが、とてもおもしろかった。

まるで
萩尾望都の「トーマの心臓」ではないか…
と思うのも妙かしら…

とくに出だしが上手い。

一歩先んじている不良のクローマーがまるで手下を使うように
川の屑を探すあたりや、この仲間同士での自慢でのリンゴを盗んだと話をでっち上げてしまうあたりが見事。
悪事の自慢大会で
一堂の期待に酔いしれ自らのウソにうっかりと溺れてしまうシンクレール。
それをずる賢いクローマーに本当のことだと誓い、抜き差しならない窮地に陥る。


これによって脅かされ続ける
主人公のシンクレールの苦痛が始まる。

これを救うデミアンとの話を読むうちに
かっての中学の頃を思い出してしまうが、
考え見たら、
そんな記憶が蘇がえらぬのなら名作とは呼べないのかもしれない。

2010年11月30日火曜日

プロイスラー作「クラバート」



とてもおもしろい。

この本を知ったのは、丸谷才一の紹介本。
「精霊たちの家」や「悪童日記」など
実に面白い物語を読むきっかけとなった。

そう思いながらもこの方の書評や紹介のようには
とても書けないのが残念です。

物語の展開が見事で、これは宮崎駿がやったらいいな、「ハウルの動く城」よりは
こちらのほうではないか、などと思っていたら、
検索してみたら、あのチェコのアニメ作家カレル・ゼーマンが昔に手がけ、
最近ドイツの監督によってしっかりいまの
ファンタジー系映画となっているのを知った。

やれやれ。

しかし本が先で良かった。
そういえば映画の方が面白かったのが、「黄金の羅針盤」だ。

こういう差は、一見
たいしたことないみたいに見えるけど相当違う。

それはもうイメージの威力と言うほかない。

2010年11月15日月曜日

ディネセン「アフリカの日々」

以前トルコ国境のアララット近くに行ったことがある。
ノアの方舟が漂着したところと
                 されている。
しかし、
ジョン・ヒューストンの「天地創造」や聖書には
たくさんの動物が箱船に乗っている。

あれらが到着したのは、アララットよりも
アフリカに違いない。

そうでなければ、
ゾウとかキリンはトルコのどこにいるんだろう?

この本は、メルリ・ストリープが演じた映画とずいぶん違うのに驚いた。
あれはカレン・ブリュクセン伯爵夫人の伝記だ。

【配信者の「愛と哀しみの果て」の関連記事→http://domenicoface.kitaguni.tv/e911562.html】

原作はとても神話的に、物語として作られているが、
そのどこにもない失われてしまったアフリカのイメージが
魅力になっている。
コーヒー農園まで経営し、やがて破綻するという作者が
体験したリアリズムとはちがう語り的な世界だ。

読んでいるうちに
もう一回アフリカに行きたくなった。

2010年11月3日水曜日

「神を見た犬」デーノ・ブッツアーティ

幻想的な物語の短編集。

解説のあるようにイタリア版のカフカ的なところもある。

戦後、カルヴィーノのようなパルチザン系の小説にならず
このようなおもしろい話の数々を創作したとはすごい。

映画のプロットのようだったり、不条理劇の題材になりそうだ。

2010年10月23日土曜日

「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」

村上春樹インタビュー集。

ネットでの公開質問に答えたものを編集したものを
読んでも感心するけど、
小説にたいする真摯な姿勢と、野心の大きさに
改めて感心する。

小説というか物語を定義し、
きちんとした仮説をもっていることだ。


ほぼデビュー作から同時時代的に読んできた
のがこの人。
やはり「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を
読んだ時に、
「作家になったんだな」と思ったことを記憶している。

当時芥川賞の小説を読んでもよくわからなかった。
村上龍のだって「コインロッカーペイビーズ」で
やはり作家になったと思った。

しかしよく考えると、逆に
他の、日本の業界にいる作家の人たちって
いったいなんなのだろうと思ってしまう。


テレビや映画の原作を与える役割なのか…

2010年10月22日金曜日

「夜想曲集」ガズオ・イシグロ

音楽にまつわる5つの短編集。

長編しか知らない作家だが、なるほどこういう短編を書くのか。
短編になると、印象がずいぶん違って感じられる。

お互いの背景や価値観の違い、
その会話が気持ちにまでとどかず
交じらない感じがとても現実感がある。

ドラマでは割合わかりやすく流れるが、
日常案外そうじゃない、そういところが印象に残る。

2010年10月16日土曜日

「地上のみ知らぬ少年」ル・クレジオ


前回のスタインベックから続いてノーベル賞作家の小説だ。
それにしてもこのノーベル賞、なぜか受賞作の小説が
よくない。いいのにあたっていない気がする。

このクレジオのもはじめて読む。

この本はどんな風に読んだらいいのだろう?

まずもって「ダ・ヴィチ・コード」みたいな小説じゃない。
フランス人の作家だ。
フランスと言えば、マルグリット・デュラスもいれば
「大人は判ってくれない」のある国だ。

小説と映画には特に独自のテイストがあり、
まずもってエンターティメントのひねりも意味も異なるお国柄。

ちょっとサンテグジュペリの王子様がこの地上にやってきたような別バージョンのようでもある。
その日の、その時に来た意識の海に浮かんだ言葉をすくいとっている。
断片的で哲学的、
そういう本はありそうだが、350ページの本なのだ。


どのジャンルにも属さない物語がこうして出版されるのがフランスだと思う。

読んで行くはじから消えて行くような文章だ。

「人間は言葉のせいでこの世に生きるもののなかで最も孤立した存在になってしまった。
沈黙と手を切ってしまったからだ。」

2010年9月28日火曜日

ジョン・スタインベック「コルテスの海」


スタインベックを読むのははじめて。
これはなかなか読みにくい小説の一つだと思う。

その航海の同行者エド・ケリッツの話から、
おかしな生物学研究所を営む奇行の友人が踏切事故で死ぬ場面から回想される。
一体何が面白いのかわからぬままこのパートナーの日常の生態に付き合う。

一種のドキュメンターで、
ババ・カリフォルニア半島の長い長い湾の沿岸を
日本との戦争に突入した頃、この長い航海をはじめている。

海洋研究の、
そう、「ナショナルジオグラフィック」みたいなものだ。
果たしてそういう海洋生物の生態調査報告を
文字で読んで適当かどうかはわからない。

読んでいる途中で、
「オーシャンズ」という海洋映画を見たが、
この航海の体験とシンクロしたような気分だった。

それにして訳が今ひとつよくないような気がする。

2010年9月3日金曜日

「ハロウィーンがやってきた」

宮沢賢治がアメリカにいたら、こういうイメージの幻想文学を書いたように思う。
それと、あすなひろし。
個人的なことだが、ブラットベリを読むと反射的に蘇るのは、
この時代を味わった者の個人的な象徴ではないかと思う。


1971年晶文社文学のおくりものシリーズ
「たんぽぽのお酒」は71年出版で15歳の時に買った。
これはやはり記念碑的な小説だ。


レイ・ブラットベリ「緑の影白い鯨」、ヒューストンの「白鯨」の脚本のことを書いているが文章がしっくりこない。
中学の感動がなくなってしまったのは不思議だ、
同じ作家とは思えない。

いつも感じるが本はタイミング難しい。

さて
読み直しということでもないが、
文学のおくりものシリーズの、
未読の「まっぷたつの子爵」イタロ・カルヴィーノを読んでみた。

2010年8月29日日曜日

「王になろうとした男 ジョン・ヒューストン」

この自伝はいかにもジョン・ヒューストンらしい。
このアメリカの監督は、巨匠だろうか? 名匠だろうか?

巨匠はワイラーだし、名匠はジョン・フォード
の方が相応しい。

いつもジョン・ヒューストンをどう評価していいかわからない。
すごくいい作品もあるが、それを覆すものもある。

この人ちゃんと撮っているんだろうか…
どこかそんな気がするからだ。

この本を読んでなるほどそうかと思った。
自分で勝手に設計して建てた家に、フランク・ロイド・ライトが見物に来て
あれこれと褒めるのかけなすかわからないような
コメントを述べて行ったそうだ。

なかでも「どうしてこんなに天井を高くするんだ。低い方が落ち着く。」
と言われ、背の高い我身の身長に合わせたと解説したとか。

そのユニークなセンスに、もし自伝映画を撮る機会があれば
ヒューストンを希望するという遺言に残したとか。

ヘミングウェイとの交流からも、
ヘミングウェイよりもヘミングウェイらしさのあったヒューストン。

最晩年、黒澤明の「影武者」を絶賛し、
「ビリー・ワイルダーならどうする」の中には、
黒澤、ビリー、ヒューストンがアカデミー賞授賞式で
の三人が一緒になった写真がある。

車いすで「ザ・デッド」を監督したが、これはまだ見ていない。

2010年8月28日土曜日

「1Q84 BOOK3」

なるほど、と想える村上春樹の第三巻

感心するのは、ヒロインの青豆が妊娠していたという設定。
実に見事な小説的なアィディアだ。

ほぼ1年前に読んだ前の二冊だが…


天吾、青豆、牛河の三節で進むストーリー
それが半分くらいまで引きこもっているのも
なんとも現代的だ。


牛河を入れて青豆、天吾の3つの章構成事態がサスペンス的だ。
わざわざ何かを持ちこまずとも時間的な誤差や目撃がサスペンスとなっている。
小説の半分ほど、
それぞれの引きこもり状態の意識と静的な細かさが後半の効果をあげている。

宮部みゆきや東野圭吾がこういうのを書くとどうなるんだろう?
たぶん、そのミステリーとかサスペンスの型に入ったものになるんだろう。
こういう現代作家の小説を読まないのは、そこに理由がありそうだ。


この少し離れた三巻めでは、牛河が探偵として登場。
村上のキャラでは、特にユニークな牛河。
「ねじまき鳥クロニクル」での牛河の新鮮さはインパクトがあった。

個人的には、某政治家の秘書で、マッチポンプ的な悪党人物と
大変よく似ている。

いいかどうか別にして
今回は1/3を占めることもあり、少し読み手と
親しくなった気がしないではない。

2010年8月1日日曜日

タルコフスキー日記

人の日記に興味がある。

自分の日記は、パソコンに入力するようになってから、ほとんど出来事のメモも程度になった。
相変わらず、夢の日記もつけている。

手描きの時にはずいぶんとだらだら書いていたり、いったい
日記とは
どのように書くべきか、模範的なものを知らない。

タルコフスキーの日記はタルコフスキー的だ。

かなり多くの本の印象に残ったセンテンスの引用がされているのに驚く。
なにしろ最初から、

吉田兼好の徒然草のあれ、から始まる。

それとロシア、いやこの頃はソ連か
映画協会のグチ…、かなり嫌われていたのは、やはり天才だからだろう。

その嫉妬攻撃がすごい。
しかし日記にその様が残されているのもなにやら自伝的。

ベルイマンが好きだったとは以外だが、タルコフスキーは映像を
夢のように撮れるあたりに関心があったのだろう。

フェリーニの「8 1/2」、「野いちご」…

遺作の「サクリファイス」
スヴェン・ニクヴィストに満足せず、
ずいぶん自分でカメラワークを決めたとある。

「ぼくの村は戦場だった」の海岸を走る二人の子供のショット
「ルブリョフ」の教会まで鐘を運ぶ俯瞰撮影など
それだけで名画となり得ている。

それからすれば、不満も仕方なしか。

2010年7月23日金曜日

二回目の「カラマーゾフの兄弟」

新訳版として評判になったので、せっかくの機会と読み直してみた。

驚いたことに、もっと憶えていてもいいはずなのに
あんまり憶えていない。

旧版もそんなに読みやすいとは思わなかったけど…
それはそれで、ショック。

何だってこんなに忘れているんだろう…

これはもう何度か読み直さないと
十分に理解できない文学のひとつ。
そう思って諦める。

そう、
何度でも読むつもりで気軽に読もう。

「ワイルダーの自作自伝」

映画監督ビリー・ワイルダーは、作品をスクリーンで見るようになった時にはすでに名匠だった。
それも年齢とともに下り坂にはいっていた。
同時代的に見たのは、「シャーロック・ホームズの冒険」で
あまりおもしろいとは想わなかった。

それ以上にテレビで見た「サンセット大通り」「アパートの鍵かします」
「第十七捕虜収容所」「お熱いのが好き」などがよかった。
そういう点では、ヒッチコックも同じだ。

しかしこのインタビュー自伝は、おもしろい。

ナチスの手から逃げ延び、なんとかハリウッドで仕事を求める。
映画業界は今と違ってさらに興行的な山師の集団。

ワイルダーの皮肉たっぷりのまなざしは時に、自分の映画にも向けられる。
この人は、社会を冷ややかに愉快に見る力がある。
だからそこ、あのような名作を創ることができた。

それにしてもユニークだと想ったが、彼はピカソやマリーニなど近代の美術のコレクターでもある。
「近代」というのも変だけど、その当時は皆まだ生きていた。
その目利きの彼がオークションで買った作品を売る。
きっかけが、収集仲間が死ぬと、その未亡人や再婚した夫が嬉々として売るから
自分もその訳が知りたくてやってみたという。

これを元手に若手の現代美術を買うようになった。

その後、長生きしたワイルダーは、同業者のキャメロン・クロウとも対談しているのだが、
これももう一度読み返そうと想う。

ビリーワイルダーの人生
と、この語り口は自身の幾つかの名作と同じくらい、おもしろい。

2010年6月18日金曜日

「CLENT」リチャード・シッケル


「CLENTクリント・イーストウッドレトロスペクティブ」リチャード・シッケル著。

クリントと言えば、あの映画だ。

……たしかに
映画好きは、評論家に近い批評を下す傾向がある。
が、それははがばかしい。

「荒野の用心棒」1964年は、黒沢の「用心棒」の盗作だが、
これだけでセルジォ・レオーネ監督を見下してしまうのは惜しい。

まず黒沢明だけど、
この日本の名匠に与えられたのは、映画における斬新なオリジナリティで、
その新たな価値づくりなのだ。
全部、オリジンが黒澤明に与えられた使命なのだと思う。

だから、
「続・姿三四郎」はけっして成功しているとは言えない。
それを監督自身も肝に銘じている。

「羅生門」、
これによってベルイマンの「処女の泉」やフェリーニに「道」を作らせる動機を裏付けたということだ。
つまりそれまでの映画のテーマの価値転換を果たしたわけだ。

黒沢はその後そうした斬新さが求められ、しかもその世界の期待に応えてきた映画監督だ。
だから、遺作「まあただよ」はあれほど面白いのに、
そうしたあまりの大きな期待に添えなかっただけのこと。

作品としてはかなり魅力手的ですぱらしい。
しばらく立って見直したけど、いい映画だ。
そしてやはり遺作の予感に満ちている。

黒沢は映画史でも偉大なる例外。

これと比べると後は凡人になってしまう。
このレオーネにしても、焼き直しのパクリだが、
今ならリメイクという分野で認知され許されるはずだ。

まず、それで言えば、「荒野の用心棒」くらい出来のいいリメイクはない。
「荒野の七人」「ラストマン・スタンディング」なんかよりもずっとわくわくさせる。
そしてマカロニ・ウエスタンというジャンルを産みだしことも忘れてはならない。

クリントもこういうのは因縁のようだ。
どうしてもこの「荒野の用心棒」は大きい。
これによってクリント・イーストウッドというスターが登場したわけだし、
それ以降でいえば
あのドン・シーゲル監督の「ダーティ・ハリー」。

スコープから写し出される遠くのプールで泳ぐ女性。

それが屋上のプールで、さらに上から男が狙撃するという
サンフランシスコの都市空間を特徴的に表現したショットはお見事ではないか。

ホッドッグをかじりながら通りの銀行強盗を打ち倒す
偶像的なヒーロー、ハリー。

それと対峙する異常者アンディ・ロビンソンがいい。
この映画で有名になったマグナムを見て、あらま、おっきい、という。

さすが父上がエドワード・G・ロビンソンだけのことはある印象深い犯罪者役。

スクールバスをジャックし、子供達を脅かして歌を歌わせるシーンはリアルなおかし味があった。
しかもかなりの卑劣卑怯ぶりは悪役史に深く記憶されるはずだ。
一体どっちが主人公なのだと思わせる。

おそらくクリントがシーゲルやレオーネにあっていなかったらあれほどの監督にはなれなかったろう。
「硫黄島からの手紙」はよく出来ていた。

けっして日本人には描けなかった戦争映画だ。

この本を読むと、ただのスターではなく、
黒沢同様に一生懸命に「映画」を探すクリントがよくわかる。

「マディソン郡の橋」にしてもなかなか
わたしはハリソン・フォードで観たい気もするけど。

2010年6月4日金曜日

新訳版「罪と罰」

名作とか古典の新訳が数年前から盛んに行われていたが、
こうした機会は、
すこし読まれなくなった古典に光をあててくれる。

今さら「罪と罰」でも…という気分を
あらためてくれるわけだ。

読んだのは,マンガ。
手塚治虫のだ。

それですっかり読んだ気になってしまう。
ずいぶん後で、ラスコーリニコフは金貸し婆を
殺してからどうなったっけと思って

また読んだのが、大嶋弓子の、やっぱりマンガ。
さすがに少女マンガ家で
ソーニャの存在感は手塚版にない繊細さだとおもった。

さすがに二人とも作家である。

しかしそれでもその原作
ドストエフスキーには負ける。

読んでいてこのおもしろさはやはりすごい。
黒澤明が愛読した作家だけあり、じつに映画的でもある。

たしかに古典はいつ読んでも新しいのだが、
それがあたらしい訳なら読みやすさはある。

これならは亀山郁夫訳の「カラマーゾフの兄弟」を
もう一回読み直してもいいとも思った。

ぜひともディケンズもやってもらいたい。

2010年5月16日日曜日

「犬の人生」マーク・ストランド

どんな内容なの?

きかれて答えるのは難しいが、
例えば、
就寝前の連れ添った夫婦が
ベッドにいる。

主人の方が耐えられずに告白しようと、悩む
妻の方は、言いたくなければいいのよと、
先きをきくのを恐れるが、
その告白が自分が犬だったと話すところから、
一気に怪しくなる。

訳者の村上春樹は、散文と解説していたが、
どれも面白い散文集。

近頃、「新参者」という
なかなか面白く放映時間を限定したドラマを見て、
別なことを思った。

この原作を読むつもりはないけど
ひょっとしたら、意識せずともドラマを想定しての原作が
既にあるのかと思った。
ならば、ドラマ化とか映像化できない
小説や文学の魅力もよりはっきり
意識されるのかもしれない。

その点からストランドの散文は、ちょっと
知的な実験的な映像作品のようだ。

2010年5月15日土曜日

本の虫干し-堀辰雄

日本文学全集26、堀辰雄の書籍は随分昔
いただいた物で読む機会のないまま取りおかれていた。

よりによってどうしてこの本を
選んでくださったのか…

読み始め、堀の文章に触れるうち思い出した。
「浄瑠璃寺の春」
という随想が好きだったからにちがいない。

それ以外に知らなかった作家だが、
「菜穂子」「幼年時代」は往年の木下恵介とか
松竹あたりの映画を思わせる楽しさがある。

それは非アメリカ映画で
ストーリー展開の巧みさでみせるのとは
違った独特のモノクロ作品のあれだ。

堀辰雄の小説には、その場面に
無花果や楡の木が描かれるが、
まるで人生というのは樹木と共に
記憶されるべきだと言うようだ。

2010年4月4日日曜日

バリッコ版の「イリアス」

盲目の語り手ホメロスの「イリアス」
をアレッサンドロ・バリッコがリライトした。

まず、ギリシャ神話にあるゼウスたち神が
人間に介入するパートを削る。

そして、重複を縮め、
この省略されているのは、
こうであろうなという追加がされている。

そのため読みやすくなっている。
どことなく、ブラット・ピットが演じたアキレウスの「トロイ」
が思い出される。

しかしあのハリウッド映画にないのは、
集団での戦闘がどのようなスタイルだったのか、
の殺戮シーンに仮説がないことだ。

なるほど、それはバリッコ版でも、
ほぼ十年の間戦闘の日々を繰り返し、
日々は、ひょっとしたらと、幾つもの想像が入り込む。

倒した名のある兵士たちは、武器をはぎ取られ敵側へのみせしめとなる。
いかに、神の庇護受けているか、無数の兵士を鼓舞する。
だいたいそうしないと、
どこでどうなっているのか
戦場の全貌はまるっきりわからないじゃないかと思う。

たしかにホメロスの煉瓦で積み上げたが、
戦争の現代的な問いかけになっている。

2010年4月3日土曜日

デ・ラ・メア物語集

「九つの銅貨」という物語集を読んで以来、
作者のウォーター・デ・ラ・メアは感心する作家の一人だ。

たまたま児童書にシリーズとして
三冊刊行されているのを知った。

読んでみたが、違和感。
訳文だから仕方がないが、たぶん
少し違うんじゃないか、ということだけはわかる。

この作家は一つの文章と一つの文章の間の
行間に何かを出現させようとすると思う。

その無精という柱、のある者に寄って
間のない部分を感じさせてくれる。

まずそういうことだと思って
訳してもらわないと、ひどく読みにくい。

たぶん子供向けの、
まあ、それは「九つの銅貨」もそれだから
いいんだけど、それも声に出して読ませるテキストの
ようだ。

そのあたりのもどかしさがある。

2010年3月28日日曜日

「鬼の橋」伊藤遊

とにかく一気に読めた。

ファンタジー賞受賞作ということなのだけど、
そこがどうなるのか…、あとがきで作者も記していたが
読んだ方もファンタジーとは何かわからない。

どちらかと言えば、物語の磁力
とでも呼べばいいのか、
その強さがあるように思う。

確かに主人公の小野たかむらは、
異母兄弟の妹を過失で死なせてしまうが、
彼岸であうことはない。

その冥府の通路を彼が開けても
出会うことはなかった。

ここには、
高畑勲版「火垂の墓」で、あの兄弟が
成仏などしていない冒頭のようなリアリティが感じられる。

そしてさらに言えば
もうひとつ。
高畑の凄まじいところは、かれらの両親も、
焼け出された洞穴の住処をさまよう。
少年は妹に、天国に言っていると嘘をつく
ほんのわずかなシーンがあった。

あるのとないのではまるで意味が違う。

もうひとつ、
この「鬼の橋」
にそんなシーンがあったらと思う。

駒井哲郎の絵がいい-「夢を追う子」



これは少し不思議な本だ。
いや、装丁のことではない。装丁はとてもいい。
特に挿絵を担当しているが、版画家の駒井哲郎。

作者、W・H・ハドソンのことだ。
内容は、
ひとりの、選ばれたような少年が
大自然の大地に誘われて行く物語だ。

たぶん作者も知らないインスピレーションに
導かれて描ききった物語なのだと記されたとおり
なのだろう。

その不思議な感覚が面白い。
もちろん、作家自身、無意識で知らずに描くことはなんら
珍しいことではない。

ただその分量と、おそらく一気に書き上げたスピード感、
それがこの物語とシンクロしていることがわかる。

作者ハドソンがその勢いに振り落とされぬように
描ききっている点がなによりも素晴らしい。

あらめてこういうことがあるんだと感心する。

2010年3月26日金曜日

やっぱりディケンズ-「大いなる遺産」



時々、無性に長い小説を読みたくなります。
たぶん歯ごたえのあるものを食べたくなったり、
山に登ってみたくなるようなものと似ているかもしれません。

そういうのにちょうどいいのが
ディケンズ。

「大いなる遺産」は、映画されたそうです。
アメリカに舞台を移し、鍵となる脱獄囚が
ロバート・デ・ニーロが演じたとか。


こういうの、つまりこの小説だけど
映画に向くとも思えないんですけど。

2010年3月16日火曜日

さすがスエーデン-ウルフ・スタルク



この少年期の物語、なんかに近いなと思ったのが
小栗康平の「泥の河」。

ちょっと似ている。
あの、まったく環境の違う少年同士が知り合って
舟を訪ねる、あの感じ。
帰ってほしくなくて、カニに
火を放ちましたね。

家が歯医者でお金持ちのウルフ少年と
ある時期が来ると引っ越すパーシーの関係は
そういう感じ。

しかし読み応えがあります。
少年でなくともです。

そして絵も装丁もいいバランス。

2010年3月8日月曜日

ライラの冒険「琥珀の望遠鏡」

久しぶりにこのような三部作
ファンタジーものを読んだ。

やはり登場人物が多く
それなりに読み進むと混乱する。

広げすぎたせいだろう。
舞台となる幾つかのパラレル世界の
空間的な質も、もうひとつわかりやすいとは言えない。

そこまで必要なのかわからない。

ゲーム的な物語とどう違うのか?
このジャンルを読まぬ私には
諸時期に言えばちょっと不可解にも感じる。

2010年2月28日日曜日

ライラの冒険「神秘の短剣」

「黄金の羅針盤」
続編、
いや これはその後の「琥珀の望遠鏡」も
全部一つの物語。

二つ目は、現代、どうやら現実世界が舞台。

主人公はウィルという父探しの詩情を抱えた少年。

彼が入り込んだ
別の世界、ここで先きに飛び込んだライラと出会う。
つまりは3つのバラレル・ワールドを
巡る世界。

どことなく村上春樹的な素材も感じつつ

様々なミックスがこのファンタジーの魅力かもしれない。

2010年2月16日火曜日

「黄金の羅針盤」フィリップ・プルマン

ライラの冒険 黄金の羅針盤 として映画でこの物語を知る人も多いだろう。

ファンタジー小説はハリー・ボッターもだが、読んではない。
この流れにあるのは、「ナルニア国物語」シリーズの「ライオンと魔女」。
オッ、これは読んだ。

映画の方が良かった。
それからトールキンの「指輪物語」。
これは「ホビットの冒険」を読んで挫折した。

だからファンタジーについてはよくわからないが、
予想していたとおりの物語。こういうのでいいか。ストーリーの流れの良さに
何か代用品のような気がする。

異次元での冒険活劇はそんな気がする。
マンガが主流ではない国にとって
これはマンガ的読み物ではないのかしら。

誤解を恐れずに言うが、これは次元が低いとか高いとか
そういうことではない。

なにかしらストーリーの中に吸い込まれて行く
そのもののなかに意味がありそうだ。

2010年2月1日月曜日

「夢の彼方への旅」エヴァ・イボットソン。


20世紀初頭、のアマゾンを舞台にした物語。

両親の死によってロンドンから引き取られた少女が
まだ未開のこの土地に家庭教師をともない移住する。

ここにいる遠縁の親族に引き取られるが、
内実は少女に送金されるお金が目当て。

母国では事業に失敗、詐欺を働きアマゾンまで
逃げ込んだが経営するゴム園の賃金も払えない。
この引き取られる遠縁の浪費ぶりは多分、ディケンズの19世紀末的。
義眼のコレクターでそっちには平気でお金をつぎ込む主人のカーター氏。

教育はアウトソーシングで、
服装や体裁ばかりそしてアマゾンの虫やら蚊を殺虫剤で殺すその夫人。

そしてそういうモノの犠牲者で、新入りの少女をいじめる加害者の双子。
一方で引き取られた少女マイラが好奇心から身につける
現地の言葉や知り合う博物学者の子フィン。

この少年がイギリスにいる大地主が跡継ぎとして捜索をしているストーリーが絡む。


「秘密の花園」を読んだせいか割に面白く読み通す。
一番は行きの船便で知り合う旅の劇団、
子役の少年クロヴィスと知り合うが、彼が捜索のフィンになりすまして行くエピソード。
後は意地の悪い双子。
金持ちの館と遺産を相続するパターンは一つの型なのか?

昨晩「シンデレラマン」も同じ。物語の基本形の一つかもしれない。

2010年1月16日土曜日

アゴタ・クリストフ「悪童日記」、三部作。


なるほど、「悪童日記」は新鮮な面白さだ。
しかし、
その続編の、「ふたりの証拠」も、
その後の「第三の嘘」。

続編でありながら、全く異なった更新の仕方をされて行く。

ふつう、続編は続くものだがそうだはない。
そうではないところに、不思議な魅力がある。

作者は、この物語を描かなければならない体験をする。
国境の近くの町が、ドイツ軍に支配され、それを追い出した
ソビエトが居座る。

そのためか、「英国王給仕人に乾杯!」を思い出し、
中欧の、よく知らない光景が浮かんでくる。

世界には実に才能ある作家がいるものだ。

「秘密の花園」

バーネットの児童文学は、映画でも見た。
そのはずなのに、どんな話だったか上手く思い出せない。

この年になったはじめて原作を手に取った。
たまたまその機会があったのだ。

なるほどこういう話だったのか……

これはコッポラでは無理かもしないと思う。

スウェーデンの監督、
「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」のラッセ・ハルストレム
の仕事だ。

彼なら、インドからほったらかしに育てられた女の子も
陽のあたらないだだっ広い館に閉じ込められる少年も
上手に演出しそうに思える。

2010年1月1日金曜日

第一級の植民地文学-「太平洋の防波堤」



マルグリット・デュラスの仏領インドシナを舞台にした
この体験的な物語。
「ラ・マン」を読めば十分かと思っていたら、
全く違う話に驚く。似ているが違う話だ。
それにこれは植民地文学だ。
デュラスの家族、取り分け母親は、植民地に置いて白人で普通なら加害者だが、
政府の小役人からだまされて、塩が押し寄せてくる耕作地を買ってしまう。
そのことで、「被害者」になった。いや、とても微妙な位置だ。
でもそのことが当時の南ベトナムの支配された現地の人々になにやら
近い視点を向ける。

個人的に南アフリカで感じたこととよく似ている。
そのことで自分が、ひどく白人化した現代人だと思う。
既にそのことで、加害者で、被害者だ。
なんとも切ない立場だ。それだけアフリカは野生が強い。
つまり弱肉強食で暴力も悪意も温暖な日本とは違う意味が含まれている気がする。
それは文明人のやるせなさ、空虚に似ている。
この小説、もちろん物語の背景だが
植民地がとても良く描けている。